技術交流
会社設立とは別に各国の豆戦車や装甲車、軽戦車その他がミラノに集められ比較された。
イタリアはマルコーニを擁していただけに無線機の軽さは群を抜いており、他にFIAT3000の砲塔後部に設けられた乗降口は、九四式軽装甲車の車体後部に設けられたそれと共に敵弾に対する乗員防護という点で一線を画していた。
ただエンジン火災時の脱出は極めて危険だった。
空挺化だけでなく被発見性を下げる為にも軽戦車は他の戦車以上に低車高が要求され、搭載重量は未だ不明だが新規車両の車高は既存車両以下を要求される事になる。
ドイツはというと、溶接による生存性が既にスペインや中国で実証されていたのでハンガリー以外感銘を受ける事はなかった。
トルディ軽戦車の生産時にリベットで妥協していたハンガリーは、溶接技術と鉄鋼を小麦や石油、ボーキサイトの対独輸出拡大と引き換えに入手する事となる。
最も注目を集めたのは37年にドイツ空軍がフンボルト・ドイツに開発させたディーゼルエンジンで、55kgの重さで158馬力を発揮。
最初は驚愕を持って迎えられたが軽合金を多用していた為、価格や資源、技術的に到底他国でもおいそれと生産出来る物ではなかった。
日本の装甲車両に見るべき点は殆ど無く、九四式軽装甲車のレイアウトを『体感』したフィアットの技術陣は設計中の装甲車、後にAB40と名付けられるそれのエンジンと乗員の間に隔壁を設ける事になる。