異世界転移した社畜はマヨネーズで無双する
弱小IT企業に勤める社畜は三日間の徹夜作業を終え、早朝のコンビニでマヨネーズを買った後、帰宅途中に心臓発作で倒れて命を落とした。薄れゆく意識の中、社畜は思う。ああ、何の意味もない人生だったな。ぼやける視界に最後に映ったのは、金の髪に蒼い瞳の、幼い少年の姿。少年の口許が、かすかに嗤った。
「ならばやり直してみるか? 新たな世界で、そのままのお前で」
その言葉を最期に、社畜の意識は闇に沈んだ。
「おい、大丈夫か? しっかりしろ!」
野太い男の呼びかけが耳に届き、社畜はゆっくりと目を開けた。徹夜明けの朝日が眩しい。社畜は思わず目を細めた。徐々に視界がはっきりとしてくると、そこにはこちらを心配そうにのぞき込むヒゲ面があった。
「奇妙な格好をしているな。異国の者か? 言葉は分かるか?」
ヒゲ面の男は倒れた社畜を抱き起している。社畜はぼんやりと周囲を見渡した。季節は春だろうか、日差しは柔らかく、吹く風も心地よい。場所はどこかの林道のようだ。よく整備された里山なのだろう、適度に間伐されて木々の距離が離れ、光がきちんと森の中に降り注いでいる。ワーケーション、というのはこういうところでやるものなんだろうな、と社畜は思った。こんな場所で、上司との連絡を絶って自分の仕事に打ち込めたらどんなに幸せだろう。もっとも我が社にはワーケーションどころかテレワークの文字すら存在しないが。
「……どこか、頭でも打っているのか?」
ヒゲ面が渋い顔でつぶやいた。社畜がぼんやりとして無反応なことを誤解したのだろう。社畜は慌てて身を起こすと、ヒゲ面から少し距離を取って正座し、居住まいを正した。
「大丈夫です。ありがとうございます」
ヒゲ面は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに安心したように笑った。こちらを心配してくれていた、その気持ちが伝わり、社畜の胸に温かいものが広がる。誰かに心配されたのは、いったいいつぶりだっただろう。納期納期と追い立てられ、誰かから気遣われることも、誰かを気遣うことも、おとぎ話になっていた。「言葉は分かるようだな」とうなずき、ヒゲ面は立ち上がると、社畜に向かって手を差し伸べた。社畜はヒゲ面の手を取る。思いのほか強い力で引っ張り上げられ、社畜は立ち上がった。ヒゲ面が驚いたように目を丸くする。
「軽いな。きちんと食べているのか?」
社畜はあいまいに微笑んで礼を言うと、膝の土を払った。三食を欠かさず食べている、ということが『きちんと食べている』に該当するなら、社畜は毎日きちんと食べている。もっともすべてカップラーメンだが。一日の内で食事に割ける時間など、せいぜい一食五分程度だ。
社畜は改めて自分の姿を確認した。よれよれのスーツに小さな黒いリュックサック。そしてコンビニの袋の中にはマヨネーズ。どうやら服や身に着けたものは倒れたときと同じらしい。ようやく頭が回りだし、社畜は戸惑いに眉を寄せた。倒れたのはコンビニから駅までの道のどこかだったはずだが、なぜ自分はこんな林道にいるのだろう?
社畜は顔を上げ、今度は目の前にいるヒゲ面を見た。がっしりとした体格で、年齢は三十前後だろうか。四角い顔をしていて美形とはとても言えないが、何となく愛嬌があり、そしてどこか気品のようなものが感じられる気がする。そしてその服装はまるで中世ヨーロッパの貴族が狩りの時に着るような、現代人らしからぬものだった。この日本でお目にかかることができるのはおそらく何かのイベントやテーマパークだけだろう。だとすると、今のこの状況はつまり、こういうことだ。
社畜は帰宅途中に倒れ、意識を失った。周囲にいた誰かが倒れた社畜を運んだ。だがその誰かは、おそらく社畜を憐れに思ったのだろう、彼を病院ではなく緑に囲まれた癒しの空間に運んだ。自分を大事にしなさい。仕事よりも大切なものはたくさんあるよ。名も知らぬその誰かはきっとそう言いたかったのだろう。太陽の位置から考えると社畜が倒れた時刻から今まではそれほど経ってはいない。せいぜい二時間。その時間で社畜を運べる範囲で中世ヨーロッパ風の貴族の姿をした外国人に会うことのできる緑に囲まれた場所と言えば、一つしかない。
――東京ドイツ村。すなわちここは千葉県袖ケ浦市だ。社畜は実際には東京ドイツ村には行ったことがないので本当にここに中世ヨーロッパ風の衣装に身を包んだ外国人スタッフが働いているのかは知らないのだが、ドイツ村を名乗るからにはザクセン騎兵的屈強な男たちが大勢いるはずだ。そうに決まっている。
「どうしてこんな場所に倒れていた? 道に迷ったのか?」
ヒゲ面がもっともな疑問を口にする。だが社畜はすでにその回答を用意していた。相手の疑問には先回りして答える。そうでなければ時間を無駄に消費する。
「おそらく誰かに運ばれたのだと思います」
「人さらいにでもあったのか!?」
「いえ、おそらく同情されたものかと」
いまいち理解できない、と言うようにヒゲ面は首を傾げた。まあそうだろうな、と社畜は思ったが、詳しく説明することもないだろう。ヒゲ面も深く詮索はしないと決めたらしく、話題を切り替えた。
「行く宛てはあるのか? もしよければ我が館へ案内するが」
ああ、インフォメーションカウンターに案内してくれるのだな、と理解し、社畜は「お願いします」と答えた。ドイツ村の雰囲気を壊さないためにわざとこういう言い方をしている姿勢は、さすがプロだ。テーマパーク内は夢の世界。夢を見せることこそがスタッフの仕事なのだという矜持が垣間見え、社畜は少しだけ羨ましいと思った。自分の仕事に誇りが持てるということは、決して当たり前のことではない。
「では行こう」
ヒゲ面はそう言うと、後ろを振り返った。そこにはがっしりとした体躯の馬がおとなしく立っている。社畜はサラブレッドしか(しかもテレビでしか)見たことがなかったが、この馬は社畜が持っている馬の印象とはまるで違った。鮮やかにターフを駆けるというよりは、すべてを蹂躙して突き進む重戦車、世紀末覇者的迫力を持っている。社畜は荷物を胸に抱え、ビクビクしながら世紀末覇者馬に近付いた。ヒゲ面が鞍に手を掛けたとき、世紀末覇者馬は警戒するように鼻を鳴らした。
「いかん!」
ヒゲ面が叫び、社畜の袖を引っ張って強引にしゃがませる。キシャァとこの世のものとは思えぬ鳴き声がして、社畜の頭があった空間を鋭い爪が引き裂いた。何が起こったか分からず、社畜はしゃがんだまま顔を上に向けた。そこには背に蝙蝠の羽を生やし、赤黒い肌に長い爪と牙を持った異形が浮かんでいた。その数は五体。こちらの手の届かぬ場所からじっと隙を窺っているようだ。これはいわゆる拡張現実というヤツだろうか。スマホをかざしているわけでもゴーグルをつけているわけでもないのに、通常の空間に映像を投影できるようにいつの間にかなっていたのか。技術の目まぐるしい進歩に社畜はため息を吐いた。そしてドイツ村の演出ハンパない。
ヒゲ面はすらりと腰の剣を抜き、社畜を庇うように左腕を横に伸ばした。そうか、だから社畜を助けたのは美少女でなくヒゲ面だったのだ。襲い来る魔物を撃退するには美少女では心許ない。ヒゲ面を最初に見たとき実はこっそりガッカリしていたことを、社畜は反省した。ドイツ村の企画構成に隙は無いのだ。
キーッと耳障りな叫びを上げて魔物が一斉に社畜に迫る。「身を低くしろ!」と怒鳴り、ヒゲ面は魔物たちを迎え撃った。斬撃が閃き、一体の魔物が両断されて地面に落ちる。死体はぴくぴくと震え、すぐに動かなくなった。絵面が妙に生々しい。そして気分が悪くなるような悪臭が死体から漂ってきた。ドイツ村の本気度が窺えるが、これは女性や子供には受けないだろう。斬られた魔物は塵になって消える、あたりが演出としては穏当なところだ。社畜の心中をよそに、魔物は再び空に舞い上がった。ヒゲ面は油断なく剣を構えている。
呼吸を合わせるように一斉に鳴き声を上げ、もう一度魔物は急降下して襲い掛かって来た。そのうちの三体がヒゲ面に向かい、一体が社畜に向かう。ああ、三体がヒゲ面を足止めしている間に、一体がこちらを襲うのだな、と社畜は妙に冷静に理解した。
「逃げろ!」
焦燥を滲ませてヒゲ面が叫ぶ。三体に囲まれ身動きが取れないようだ。魔物が社畜に迫り、その長い爪を振りかぶった。拡張現実だと分かっていてもこれは怖い。社畜は思わず胸に抱えたリュックサックを掲げた。魔物の爪はリュックサックを引き裂き、中身がバラバラと地面に落ちる。中身は着替えと歯みがきセットと小さな枕で、帰ったら洗わないといけないなと社畜は少し憂鬱になった。
……いや、ちょっと待て。本気なのは悪いことではないが、客の荷物を破壊するのは行き過ぎだろう。そもそも拡張現実が実際にリュックを引き裂くなど可能なのか? いや、そんなことはありえない。あったら困る。ならばこれは、もしかして――
「ぼーっとするな! 早く逃げろ!!」
ヒゲ面が必死に叫ぶ。三体の魔物はヒゲ面の足止めに専念しており、まともに戦うつもりはないようだ。ヒゲ面の顔が苛立ちと焦りを強くした。リュックサックに攻撃を防がれた魔物が空に舞い上がる。社畜は必死で動揺を抑えながら、手に持っていたコンビニ袋からマヨネーズを取り出し、両手で握った。リュックサックは裂かれて地面に落ち、もはや社畜には、手に持って構えるものはこれしかない。
空に浮かぶ魔物が醜悪な笑みを浮かべる。社畜は「ひぃっ」と情けない声を上げた。ヒゲ面がギリリと奥歯を噛む。魔物が羽で大気を打ち、一気に社畜へと襲い掛かった! 社畜は目を閉じ、固くマヨネーズ容器を握る。強い力で圧迫されたマヨネーズ容器からフタがはじけ飛び、勢いよく中身が飛び出した!
にゅっ!
「ギィィヤアアァァァァァァーーーーーっ!!!」
マヨネーズに触れた瞬間、魔物は断末魔の咆哮を上げ、跡形もなく消滅した。社畜はおそるおそる目を開け、信じられぬ奇跡に目を丸くする。ヒゲ面を囲んでいた三体の魔物も、想定外の事態に動きを止めてこちらを振り返った。ヒゲ面はその隙を見逃さず、あっという間に三体を斬り捨てる。剣に付着した黒い血を払い、ヒゲ面は社畜に駆け寄ると、敬うように地面に片膝をつき、頭を垂れた。
「やはり伝承は真実であった。勇者よ、どうか我が王にお会いください。そしてどうか、この世界をお救いください」
社畜はぼうぜんとヒゲ面を見下ろした。いったい何が起こったのか、何がどうしてどうなったのか、まったく理解できない。社畜が今理解できたことは、わずか一つの事だけだった。
ここは、東京ドイツ村ではない。
ヒゲ面に連れられ、世紀末覇者馬に乗って、社畜はこの地を治める王の城へとやってきた。城、という言葉でイメージするものと今目の前にある城の姿が一致せず、社畜はもの珍しそうにきょろきょろと周囲を見渡している。道幅は狭く、曲がりくねっていて、傾斜も急だ。おそらく山の斜面を削って造られた城なのだろう。つまりここは行政の中心としての城ではなく、戦いのため、軍事拠点としての城なのだ。
幾つもの門をくぐり、社畜は山の頂上にある館に辿り着いた。馬を降り、ひな鳥の如くヒゲ面の後ろをついて行く。鎖帷子を着込んだ騎士らしき者たちが慌ただしく横を通り過ぎていった。館の中はなにか物々しい雰囲気に満ちている。
やがて社畜の前に、細かな意匠の施された大きな扉が姿を現した。ヒゲ面の姿を認めた衛兵がうやうやしく扉を開ける。扉の向こうには思いのほか簡素な部屋があり、奥の一段高く設えられた場所に少しだけ豪華な椅子が据えられていた。そしてその椅子には、豊かな髭をたくわえた初老の男が、戦装束に身を包んで座っていた。面差しは鋭く、シワの刻まれた顔は威厳に満ちている。この男がヒゲ面の言う王なのだろう。
ヒゲ面は王の前に進み出て膝を折った。社畜もそれにならい、頭を下げる。王は重々しく口を開いた。
「このような姿で失礼する。我らは今、魔物との戦の最中なのだ。勇者を遇するに充分なもてなしもできぬことを、どうか許していただきたい」
い、いえ、と社畜は気圧されたように答えた。身分のある人間、しかも王などという存在と会ったのは初めてで、どう対処していいか分からない。社長と話す時と同じ感じで大丈夫だろうか? いや、たぶんダメだろう。
王は社畜に自ら勇者の伝説を語った。魔物の群れが湧き出て人々を襲い、世界が闇に覆われんとするそのとき、白き神器を携えた異国の勇者が現れ、世界を救うであろう。説明を終え、王は居住まいを正して社畜を見つめる。
「単刀直入に申し上げる。勇者よ、どうかその力を以てこの地に蔓延る魔物どもを討ち滅ぼしていただきたい。あなたの力がなければ我らはやがて魔物に滅ぼされることであろう」
そう言うと、王は社畜に向かって頭を下げた。居並ぶ臣下がざわめきの声を上げる。王が何者とも分からぬ者に頭を下げた。そのことが彼らを動揺させているのだろう。社畜は顔を上げ、そして言った。
「わかりました」
社畜は上の命令を断らない。断っても無駄だということを知っているからだ。無理だと説明しても、どれだけその証拠を提示しても、結局やらねばならないことに変わりはない。ならば説明も証拠も全てカットして、その分の労力を事態の解決に使うほうがはるかに有意義で、そして楽なことなのだ。
王は喜びと安堵を顔に浮かべる。それほどに戦況は悪いのだろう。隣にいたヒゲ面もまたホッとしたように息を吐いた。こうして社畜は勇者と呼ばれ、魔物と戦うこととなった。
ヒゲ面と共に社畜は魔物討滅の旅に出発した。魔物の影は世界を覆い、人々の暮らしを圧迫していた。旅の途上で立ち寄った小さな村にさえ、魔物の脅威は及んでいるようだった。
「最近、山から下りてきた魔物が畑を荒らして困ってるんだよ。あいつら鼻で畑をほじくり返しちまって、種芋まで食い散らかすんだから」
まるでイノシシの食害だが、この小さな村に騎士団の派遣など望むべくもなく、村人たちは悲壮な覚悟で魔物と戦おうとしていた。魔物と戦えば命を落とすかもしれない。しかし畑が荒らされれば、飢えで命を落とすかもしれないのだ。村人たちは必死の形相で社畜たちに助けを求める。どうか共に戦ってほしいと。社畜は村人を安心させるように微笑み、大きくうなずきを返した。
社畜は共に戦う仲間を見捨てない。なぜなら、明日は我が身であることを知っているからだ。仲間を見捨てて定時に帰れば、その仲間は明日には入院しており、そしてすべての仕事が自分に降りかかってくるのだ。ならば仲間が倒れないうちに協力して問題に対処することこそが、明日の自分を救う唯一の道なのだ。
社畜は夜になると出没するという魔物を迎え撃つべく徹夜の見張りを開始した。村人たちも各々別の場所で畑を見張っている。見張り小屋に身を潜め、息を殺して魔物の出現を待つ。幸いにも徹夜は慣れている。慣れているということに気付いて少しだけ涙が出た。
「来たぞ」
見張りを付き合ってくれていたヒゲ面が鋭い声を上げる。その視線の先には、畑に立ち入って地面を掘り返す数匹の魔物の姿があった。見た目はほぼイノシシのようだ。フゴフゴと鼻を鳴らしては種芋を食い散らかしている。社畜は思う。せめてきれいに食べればいいのに、と。
社畜は見張り小屋を飛び出し、魔物たちに近付く。ヒゲ面は社畜を追いながら何事か呟いた。すると中空に突然光の玉が現れ、周囲を真昼のように照らした。魔物たちが驚き、慌てふためく。社畜もまた驚き慌てふためいた。だって急に明るくなるから。
「フゴフゴ。おのれ! 食事の邪魔はさせんぞ!」
身体の一番大きな魔物が社畜たちをぎろりとにらんだ。ああ、よかった。しゃべったってことは本当にイノシシじゃなくて魔物だった。社畜はマヨネーズを構える。魔物は荒く息を吐くと、社畜に向かって突進してきた!
にゅっ!
「ギィィヤアアァァァァァァーーーーーっ!!!」
マヨネーズに触れた瞬間、魔物は断末魔の咆哮を上げ、跡形もなく消滅した。社畜はホッと胸をなでおろす。実は前のは偶然で、今回は全く効果がない、という可能性もあったのだ。残りの魔物は社畜たちに怖れを為し、算を乱して山へと帰っていった。これでもう人里に降りてくることはないだろう。
魔物が退治され、喜ぶ村民に対して社畜は裏山にドングリの木を植えることを提案し、村を後にした。どんぐりが潤沢にあれば、魔物たちもわざわざ人里に降りようとは思わないはずだ。野生動物と人の、互いに気持ちの良い距離感の大切さを説く社畜を、村人は尊敬のまなざしで見送った。
社畜たちは旅を続け、やがてとある港町に辿り着く。しかしその港町は海の魔物のせいで船を出すこともままならず、ひどく寂れた様子だった。町長は事態を打開すべく町一番の美少女を生贄に捧げ、魔物たちを懐柔しようとしていた。生贄を捧げたところで魔物が去る保証はないというのに、冷静な判断ができないほどに町長は追い詰められているのだ。
生贄の儀式が始まったと聞いた社畜たちは、急いで儀式の場に乱入する。そこでは今まさに巨大な海蛇が金髪巨乳美少女を呑み込もうとしていた。社畜は海蛇と金髪巨乳美少女の間に割って入ると、海蛇の口に向かってマヨネーズをかざした。
にゅっ!
「ギィィヤアアァァァァァァーーーーーっ!!!」
マヨネーズに触れた瞬間、海蛇は断末魔の咆哮を上げ、跡形もなく消滅した。生贄の儀式を自ら取り仕切っていたことなど忘れたように町長は社畜に駆け寄り、その手を握って上下に振る。
「あなた様こそ真の勇者! 魔物を見事退治してくれたこと、感謝に――」
マヨネーズ容器を持ったままの手を握られ、中身がわずかにあふれ出す。
にゅっ!
「ギィィヤアアァァァァァァーーーーーっ!!!」
マヨネーズに触れた瞬間、町長は断末魔の咆哮を上げた。
「ま、まさか、勇者の力を利用して周辺一帯の町を支配下に置こうというワシの目論見が見破られていたというのかーっ!」
その言葉を残し、町長は跡形もなく消滅した。社畜は冷めた目で町長のいた場所を見つめる。
社畜は権力を持つ人間を信用しない。奴らは所詮、下の者の手柄を奪い、下の者に責任を押し付けることを自らの能力と勘違いしている輩だ。納期を守れたのは自分の管理能力の賜物、納期を守れなかったのは部下の無能と怠惰の結果。そんな無能上司に対する期待も信用も社畜は持ち合わせていなかった。社畜が信用するのは、共に困難と闘う同僚だけだ。
「勇者さま!」
生贄台に縛り付けられていた金髪巨乳美少女が、ヒゲ面に縄を解かれ、社畜に駆け寄って強く抱き着いてきた。その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。恐怖を表すようにその身体は震え、抱き着くその腕には強く力がこもっていた。
「あなたさまは命の恩人。どれだけ言葉を尽くしても感謝の心を伝えることはできません。叶うならどうか私を――」
マヨネーズ容器を持ったままの手ごと強く抱きしめられ、中身がわずかにあふれ出す。
にゅっ!
「ギィィヤアアァァァァァァーーーーーっ!!!」
マヨネーズに触れた瞬間、金髪巨乳美少女は断末魔の咆哮を上げた。
「ま、まさか、このままなし崩し的に勇者を篭絡し、正妻の座に収まれば将来は安泰、などという思惑を見透かされていたというのかーっ!」
その言葉を残し、金髪巨乳美少女ヒロインは跡形もなく消滅した。社畜は冷めた目で彼女のいた場所を見つめる。
社畜は女性との関りを諦めている。どうせ電話もメールもSNSも、まして直接会うなんて時間はないのだ。土日は当然のように出社し、平日はサービス残業。その合間を縫ってLINEの返信など物理的に不可能なのだ。それらに対処する時間と労力を睡眠に割り当てたいと思うことは果たして罪なのだろうか? いや、誰も社畜を責めることはできないはずだ。
魔物と町長と金髪巨乳美少女ヒロインが消え、港町は以前の賑わいを取り戻した。社畜たちは船に乗り、ここよりもさらに激しく魔物と戦う場所へと赴く。そしてそれは、魔物たちを率いる魔王の居城へと続く道であった。
「ふはははっ! よくぞここまでたどり着いた! 我こそは魔王軍四天王が一者――」
にゅっ!
「ギィィヤアアァァァァァァーーーーーっ!!!」
「ふんっ! 『疾風』のゴメスを倒したからといって調子に乗るな! あやつは四天王の中でも最弱、この――」
にゅっ!
「ギィィヤアアァァァァァァーーーーーっ!!!」
「よもや四天王の半数が討たれようとは――」
にゅっ!
「ギィィヤアアァァァァァァーーーーーっ!!!」
「四天の――」
にゅっ!
「ギィィヤアアァァァァァァーーーーーっ!!!」
そして社畜たちはついに魔王の居城に乗り込み、その玉座の間に辿り着いた。ゆっくりと扉を開けると、そこには白蝋のような肌の老人が座り、こちらをつまらなさそうに見ている。
「よもやここまでたどり着くとはな。さすがは勇者と言ったところか。だが、すべて無駄なことだ。この私に勝つことはできぬ」
社畜はまっすぐに老人に向かって歩みを進める。老人――魔王は不快そうに鼻を鳴らした。
「この世のあらゆる魔具、聖宝、神器、その一切が私には効かぬ。私は魔を極めし者。魔法を起源とするあらゆる力は、我が前に膝を折るのだ」
社畜は魔王の前に立ち、マヨネーズを構える。魔王の身体から邪悪な気配が立ち上り、闇色の槍となって社畜に狙いを定めた。
「魔王に逆らう愚かさを恨みながら死んで――」
にゅっ!
「ギィィヤアアァァァァァァーーーーーっ!!!」
マヨネーズに触れた瞬間、魔王は断末魔の咆哮を上げた。
「ま、まさか、この魔王の力を以てしても打ち消すことのできない力が、この世にまだあったというのかーっ!」
社畜は憐れみを宿した瞳で魔王を見つめる。
「これはただのマヨネーズじゃない。――特保(特定保健用食品)だ」
魔王の顔が驚愕に歪む。
「ばかな……コレステロール値を下げる効果まで、あるなんて……」
その言葉を残し、魔王は跡形もなく消滅した。社畜は小さく息を吐く。隣にいたヒゲ面が歓喜の声を上げた。今、世界は救われたのだ。
こうして世界から魔物の脅威はなくなり、人々の喜びの宴は長く続いた。もはや魔物に怯える夜はこない。人々は喜びを踊り、幸せを歌った。そんな人々の様子を満足げに見つめ、社畜はそっと人々に背を向けた。魔王は滅び、世界は救われた。しかし人生はまだ続いていくのだ。劇的なことなど起らない、普通の日々が、ずっと。
社畜は空を見上げる。地上の喧騒とは無関係に、星々は変わらぬ姿でそこにあった。しばらく星を見つめ、やがて社畜はポツリとつぶやく。
「……ポテサラでも作るか」
その言葉を最後に、勇者と呼ばれた社畜は人々の前から姿を消したのだった。
大容量ボトルですネ。