8.哀れな少年の記憶
ティルパが目を覚ますと、そこは犬小屋程度の小さな檻の中だった。
腰をおこすのが精一杯の檻の中で格子を握りしめ、前後に力いっぱい揺さぶりながらティルパは叫ぶ。
「なんだここは? どうなってるんだ!」
「あなたが望んだ場所よ。卵の中の時間的にとじた空間。そこにいればお望みどおり永遠に年をとることも、死ぬこともないわ」
その声はティルパの向かいに見える檻の中からだった。
そこにはニムとあの赤いドレスの女性がいた。
その容姿に見合わぬ幼い声。
意識を失った彼女の体を借りて、ティルパに語りかけているのはメディだ。
「違う! 俺が望んだのは物語の世界だ。こんな檻の中じゃない!」
彼はなおも否定を続ける。
そんな彼の存在を本当に認識しているのだろうか。彼女の視線は茫洋として知れない。
「馬鹿な。ティルパ――おまえは何を言っているんだ」
ニムがティルパを問いただす。
「おまえは最初から、こうするつもりで――」
彼の言葉をさえぎってティルパが乱暴に答えた。
「あぁそうさ! その通りだよ! 俺は最初からこれが目的でこの旅に同行したんだ」
わざわざくじ引きを改ざんしてまでね、そう付けくわえるティルパ。
「幸い、村の厄介者の俺が選ばれたことに異論を唱える者も、疑問をもつ者も、一人だっていやしなかった」
嫌味たっぷりに続ける。
「俺はちゃんと覚えていたんだ。塔のことも、あの娘のことも……なのに何故だ!」
訴えを繰りかえしながら、彼は鉄格子を蹴り飛ばし始めた。
繰りかえし、繰りかえし、蹴りつづける。しかし鉄格子は彼の意思をはねつけ、その存在を頑強に誇示し続ける。
「何故、俺がこんな仕打ちをうけなければならないんだぁーー!!」
髪を振りみだし涎を垂れながしてわめき散らすその様は、まるで狂人のようだった。
「わめくのはそのくらいになさい」
彼女が静かに、しかし力強くそう告げるとティルパは不意に我をとり戻したかのように暴れるのをやめ、身じろぎ一つしなくなった。
「はじまるのよ。あなたの物語が……」
彼は呆けたように彼女が指差した方向を見上げる。
「あぁ……あぁ!」
ティルパは呻きを漏らしながら自身の顔をその手で覆った。
しかし、指の隙間から見開いた眼に焼きつくように届くその映像が、彼の視線を捕らえて離さなかった。
「自分は汚れた子」
まだ幼いティルパは思います。
なぜならそう言われて育ったからです。
それでもティルパは平気でした。
大好きなお母さんがいつもそばにいてくれたからです。
「あなたは私の太陽。お母さんはあなたの笑顔を見ているだけで幸せなの」
ティルパもお母さんに遊んでもらえる時だけが幸せでした。
「あぁ母さん、母さんだ」
ティルパは映像の中の母親にすっかり目を奪われていた。
涙が頬を濡らすばかりか鼻先からも滴っていたが、そのことに気をとめる様子もない。
ですがそれは彼に弟ができるまでの間だけでした。
弟をお母さんはとてもかわいがりました。
「俺の子だ。はじめての俺の子だ!」
いつもティルパのことを避けるお父さんも同じでした。
だけどいつしかお母さんは弟の世話ばかりで、ティルパと一緒に遊んでくれなくなってしまいました。
ティルパは寂しくて、寂しくて、仕方ありません。
「汚れのない子が生まれたから、汚れた僕はもういらない子なの?」
そう質問するとお母さんもお父さんもティルパを叱りました。
でも決して彼のことを必要だとは誰も言ってくれないのです。
それでもティルパは弟が好きでした。
大きくなった弟はいつもティルパの後をついて回ります。
「お兄ちゃん、森へ連れて行ってよ!」
今日は二人で森へでかけることになりました。
二人は森で盗賊ごっこをして遊びます。
「やいやい! 金目の物をだしやがれ!」
そのとき弟が行き倒れた老婆を見つけました。
「おばあさん、どうしたの?」
「お腹がへって動けないんだよ」
ティルパは持ってきたサンドイッチをその老婆にあげました。
老婆はティルパに感謝してこう言います。
「なんでも一つだけ、望みをかなえてあげよう」
ティルパは迷わず言いました。
「優しかった昔のお母さんに戻ってほしい」と。
「違う! だめなんだ、それは魔女だ!」
ティルパは映像の中の幼い二人に向かって声を限りに叫んでいた。
もはや他に二人の傍観者がいることなど眼中にない。
物語の世界に囚われた幼い子供のように現実と物語の境界が把握できなくなっている。
「父さんが――、あいつが村から追い出した魔女だ。彼女はあいつの代わりに俺達へ復讐を……」
「そのために何を無くしても構わないかい?」
そう老婆は問いかけます。
ティルパにはお母さんと弟の他に大事な物は何もありません。
「うん、いいよ」
すると老婆は弟を奪いさって消えてしまいました。
家に戻ったティルパは泣きながら、弟が連れさられたことをお母さんに言いました。
「おかしなことを言う子ね。あなたには弟なんていないでしょう?」
なんということでしょう。
お母さんは弟のことを何も覚えていなかったのです。
だけどお父さんは覚えていました。
そして、弟を見捨てたとティルパを叱ります。
「おまえが変わりにいなくなればよかった」
そう言って嘆き続けました。
そして、弟のことを忘れてしまったお母さんも責めました。
お父さんとお母さんの間には喧嘩が絶えなくなり、やがてお父さんは家をでて行ってしまいました。
残されたお母さんとティルパも追われるようにして村をでました。
それでもティルパは幸せだったのです。お母さんがいてくれたから。
しかし、二人だけの生活は長くは続きませんでした。
お母さんが心の病にかかって亡くなってしまったのです。
ティルパは一人ぼっちになってしまいました。
「あぁ、母さん、母さん……」
泣き崩れるティルパ。
すでに物語は終幕をむかえつつあった。
映像の中には塔へとむかう幼いニム達のあとを遠まきに追う、ティルパの姿が映しだされている。
しかし、彼の心は物語の世界に囚われたままでその映像が目に入っているかも定かではない。
「メディ。あいつをここから出してやってくれ」
ニムが静かにそう言うと、となりの彼女が小さく頷いてそれに答える。
「そして俺も」
その一瞬、ニムには彼女に表情がもどったように思えた。
それは憂いに満ちた悲しげな表情だった。
「あの人に感謝を。そして君にも」
ニムは彼女の肩を抱きよせ、額と額をあわせる。
彼女の温もりを確かめながらニムはゆっくりと気が遠くなっていくのを感じた。
ぼやけた視界の中でティルパが、がっくりとうな垂れるのを確認し彼もゆっくりと瞼を閉じた。