9.想いの欠片
静まりかえった室内で最初に気をとりもどしたのはティルパだった。
そのまま、ゆらりと立ち上がる。
背後に気配を感じて振りかえるとそこに赤い服の少女がいた。
「おかげで思い出したよ。すべて君のおかげだ」
ティルパの表情からは邪気がぬけ、清々しさすら感じられた。
「俺が物語の世界で一緒に暮らしたかったのは君ではなく、母さんだった。だけどその母さんはむこうの世界にもこちらにも、もういないとわかった……」
足元に倒れたままのニムの体をまたぎ越えてメディの元へ近づいていく。
少し寂しげな笑みを湛えたままゆっくりと左手を差しだし、彼は和解をもとめた。
メディも逡巡の迷いがあったものの、その申し出をうけてゆっくりと手を差しだす。
彼女が自身の過ちに気づくのに、さして時間は必要としなかった。
メディの腕が万力で締め上げられたかのように鷲づかみにされ、腕が抜けんばかりの勢いでティルパの眼前へ引きずりこまれる。
驚いてティルパを見上げたメディは全身に悪寒が走るのを感じた。
狂気――。
正にそういうにふさわしい形相でティルパがメディを見おろしていた。
「もう一つ、大事なことを思い出したよ。魔女は弟と母さんの仇だってね」
背に隠し持っていた鉈が頭上高くに振り上げられる。
メディは不思議と恐怖を感じなかった。
そして、その身に降りかかろうとする災厄を回避しようともしなかった。
「死ね!!」
その言葉を合図に目をとじ、死が自分に訪れることを受けいれた。
彼女は与えられた卵の守護という役目の終焉を感じていた。それは同時にその命がもう長くはないことを示している。
そして自身の想いも果たすことができた。
もう未練はない。
最後の瞬間が訪れるのを愛する人のことを想いながら待つメディ。
「畜生! はなしやがれ!」
突然、ティルパがそう怒鳴る声が聞こえた。
目をあけると鉈の歯は変わらずメディの頭上にあったが、それが見えない壁に突き刺さってでもいるかのように空中で静止している。
そして、ティルパの後ろに人影。
「ニム!」
ニムが彼を後から羽交い絞めにしていた。
「メディ、無事か?」
彼女は安堵の表情を見せながら何度も頷いた。ニムもメディの無事を確認し、口元に軽く笑みをうかべる。
しかし、次の瞬間、真紅に染まって床に倒れこんだのはニムの方だった。
ティルパがニムのつま先を踵で踏みつけて彼の腕を振りほどき、振りかえりざまにニムの胸元を鉈で切り裂いたのだ。
それは自身に対するおごりだったのかもしれない。
貧弱なティルパを押さえこむことなど自分にとっては造作もないことだと。
鮮血が宙を舞い、次いでニムの体がメディの視界の外へと沈みこんでいく。
彼女の精神を崩壊に追いやるべく、事態は最悪の様相を呈していた。
メディは両の手で顔を覆ったまま立ちつくし、倒れこんだニムに触れることも声をかけることもできないでいる。
「た、……助けて……誰か助けて!」
彼女はやっとのことで自我をとりもどし、声を絞りだした。
振りかえり、天をあおぎ、声を限りに助けを求めた。しかし助けの手はおろか、彼女の呼びかけに答える者すらいない。
加害者のティルパはといえば自分の凶行にやっと気づき、立ち尽くしたまま放心状態になっている。
ニムに駆けよるメディ。
そうしている間にも傷口からは大量の血液があふれ、ニムの顔が土気色に変わっていくのが手にとるようにわかった。
彼女は気を失ったままのニムの頭をかかえて膝の上に抱きおこした。
涙がニムの頬に点々と落ちる。
「メディ、あなたしかいない! ニムを助けてぇ!!」
もう一人の自分へ向けた最後の叫びにも、静寂以外の答えはない。
ニムの手を握ると彼の体が急速に体温を失っていくのがわかった。
彼女は両の手で必死に零れおちる命を受け止めようとするが、指の隙間から漏れ出ていく命の雫をどうすることもできないでいる。
ニムを抱きしめたまま、メディは力尽きるようにうな垂れた。
彼を助けるだけの力は自分にはない。
自分は想いの欠片でしかなく、それをただ愛する人へぶつけることしかできない、極めて矮小で卑屈な存在だ。
彼にあれだけ求めながら何もしてあげられない自分が酷く情けなくて、同時に醜く思えてならなかった。
しかし、それでも諦められない。
自分の身勝手な想いのせいで彼の命を奪うことだけは、絶対に避けなければならなかった。
いや、違う――。
彼に生きていて欲しい、それは最も単純で切なる願いだった。
「私はどうなってもいいから……」
嗚咽にも似た声で彼女は再び哀願した。
それは一瞬の間だったのかもしれない。
しかしメディにとって気の遠くなるほど長い静寂の後で、その声は響いた。
「あなたの力をもらうわ。それが、どういうことかわかるわね」
突然のその声は彼女の背後から聞こえた。祭壇の上、卵の中からだ。
声に反応して顔を上げたメディは、ニムの血に塗れた手の甲で自身の頬をぬぐい、卵にむかって力強くうなづく。
朱に染まる頬。その眼差しには何事にも揺るがない絶対の意思が宿っていた。
「わかったわ」
再び響く声。
同時に祭壇上の卵が内部から強烈な光を放ちはじめた。
卵はまるで心臓の鼓動のように規則的な明滅を繰りかえし、それに呼応するかのように塔自体も大きく揺れる。
徐々にその間隔はせばまっていき、それと共に光が激しさを増していく。
もはや部屋の中には一遍の影も存在せず、すべての物体がその明暗を失って一つになる。
塔を揺さぶる激しい音も次第に遠く聞こえなくなっていき、やがてその空間は無に飲みこまれて消失した。
ニムが目を覚ましたとき、目の前には再び赤いドレスの彼女がいた。
背中と後頭部に冷たい石の感覚があった。ドーム状の天蓋が見える。
彼女が頭をゆっくりと撫でてくれているのが心地よかった。
部屋の中央には祭壇があり、粉々に砕けた卵の殻があたりに散らばっていた。
少し距離を置いてマッコイとティルパが横たわっているのも見える。
「俺はどうなった? 助かったのか?」
彼は胸をまさぐる。
切り裂かれた衣服を除けば胸板に一切の傷跡はなく、血痕すらも皆無だった。
「あの子が――あの子が、自分の存在と引き換えに……あなたを助けたの」
彼女が途切れがちにそう言った。
ニムはそうか、と一言いって横たわったまま目頭を手でおおった。
自分でも理解できない感情が、熱いものがこみ上げてくる。
塔での少女との出会い。
二人で遊んだ日々。
彼女が残していった想いが、彼の失った過去を補ってくれていた。
「メディ、たった一つだけ思い出したんだ。俺の、この手をつかんだ君の温もりを」
彼は涙に滲んだ視界の中で、自分の手の掌を見つめながらつぶやく。
そのとき、ニムがメディにそっと手を差しだしました。
「一人じゃないよ。僕がいる。ショコラとアーモンドも」
メディはニムの手をとって立ちあがり、涙をふきながらにっこりと微笑みます。
「眠りなさいニム。少しの間、お別れよ」
彼女はゆっくりと腰を上げる。
ニムは自分の意思とは無関係に、深い眠りの谷へと引きずりこまれていくのを感じた。
それは暖かく、安らぎに満ちた感覚だった。