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3 はなれ

 時子さまがお怪我をなさったとき、私は女学校の5年生。

 友だちのいない私でも、さすがに噂くらいは耳にしました。


 なんでも、とんでもない大怪我をなさったらしい、と。


『もう絶望的だ』

 と悲観的に語る子がいる一方、逆に、

『本当なら死んでいるような怪我なのに、現代医学の奇跡で一命をとりとめたのだ』

 と楽観的に嬉しがる子もいて、事情通たちの語るあやふやな噂話に、皆、振り回される一方でした。


 あとで思い返せば、絶望的も、現代医学の奇跡も、どちらも真実を言い当てていたのですが……。




 やがて、私は女学校を卒業し、皆と同じように時子さまのことを気に病みながら、日々の暮らしを送っていました。


 ――いえ、正直に申しますと、須永時子さまのことを思い出すことは、ほとんどなくなっていたのです。


 だって、女学校を出てしまえば、あこがれの上級生の噂話など耳にすることはなくなりましたし、

 時子さまのおいえである須永のご本家からも、なにも聞かされていませんでしたので。(私の家とは親戚といっても、その程度の縁であったのです。――本来は、そのはずでした)


 それに、私はタイピスト見習いの職を得て、町で忙しく働いておりましたから、薄情とはいえ仕方のないことであったと思っています。



 ――ですが、そんな折のことでした。

 須永のご本家から、電報にて急な呼び出しがあったのは。




 翌日、私は仕事を休み、半日かけて、市の反対側にあるご本家のお屋敷へとうかがいます。

 すると、いつも居丈高でいらした大叔母さま――時子さまのお母さまが、すっかりおやつれになったお姿で、私を出迎えてくれました。

 しかも、ありえないことに、ふかぶかと頭を下げながらです。


「マアマア、フミさん、よく来てくださったわね。――実は、時子が貴女に会いたがっているんですの」


 これもまた、あるはずのないことでした。

 女学校時代、私と時子さまが一度も口をきいてないのは、前におはなしした通りです。

 それなのに、今さら私に会いたいだなんて!


 戸惑う私の手をとって、大叔母さまはお屋敷の奥へと向かいます。(その握力は、ひどく弱々しいものであったのに、たまに爪が肌に立ち、やたらと痛く感じました)


 私たちは、奥へ、奥へと。

 やがては外へ。


 母屋の勝手口から出て、裏の林の中にある『はなれ』へと。


 その小屋は、たしか古い茶室を改装したもので、長期滞在の客人が使うためのお部屋ということになっていましたが、私の両親などは、


『昔は、きっと座敷牢だったのだろう』


 と、陰で囁いておりました。


 私は子どものころ、両親とともにここに泊まったことがありますが、

(葬儀や婚礼などで親類一同が集まる際は、いちばんの傍系である我が家が、この部屋を使うきまりになっていたのです)

 たしかに、そんな雰囲気のある建物でした。


 そんな特有の気配を漂わせた、はなれ小屋の中――。

 私は、目にしてしまったのです。


 今の須永時子さまのお姿を!


 手足のない、あの彼女の姿をです。



「――ふみぃっ! みぃっ! ふみぃっ!」



 そのときは、さすがに初見とあって、私もびくりと背をのけぞらしました。



(――そんな!? なんて、怖ろしい!)


 ああ、みにくい。こわい。おぞましい。

 まさか、これがあの時子さまであるなんて!


 今までに聞いたいちばん悲観的なお噂よりも、さらにひどいお姿ではないの!



 ……これが、そのときの私の率直な感想でした。

 その後、少し遅れてから、


(いいえ、おそろしいなんて思っては駄目だわ……。ああ、なんてお気の毒に――)


 なんて、きのどく。かわいそう。

 兵隊に行って、こんなお体になったのだもの。

 お国のために、全国の婦人の名誉のために、こんなひどい目にお合っておられるのだわ。


 ――そんな理性的な考えが、少しずつ頭を占めるようになりました。

 ただ、それでも表情は自然とひきつり、足も自然と一歩、二歩と、あとずさりをしてしまいます。


 このくらいの反応は、仕方のないことなのでしょう。

 だって、見慣れているはずの大叔母さまでさえ、障子を開けた瞬間、わずかに目を逸らしていましたから。


 次に障子を開けたときは、すべて元通りになっていないだろうか。――毎回そんな、絶対あるはずのない可能性にすがり、かなわぬ祈りを繰り返すのが、親の本音というもののようです。



「これが、時子さまなのですか……!?」

「ええ、そうよ。フミさん、『これ』が時子でしてよ」



 時子さまは、四肢のもげたお体躯からだに、薄い襦袢というお姿。


 そんなお体で布団の上を、もぞもぞ、もじもじ、と動いていました。

 なくなった手足を動かすのにまだ慣れてないのか、じたばたと残った切れ端を必死に動かしながら、


 その場で、ぐるぐると、独楽か自分の尾を追う仔犬のように回っていたのです。


 ただ、ぐるぐる、ぐるぐる、と。

 これは、手足の『残り』の長さが、微妙に違っていたためであるのでしょう。


 そして、喉が悪いのか、それとも肺のせいなのか。

 その口からは、


「――ふみゅう! ふみぃ!」


 という、声とも呼吸ともつかぬ奇音が、ずうっと漏れ続けていたのです。

 大叔母さまは「ふうっ」と疲れた笑みを浮かべて、言いました。


「ほら、フミさん。貴女のお名前を呼んでるでしょう? フミぃ、フミぃ、って」


 この言葉を聞いて私は、時子さまのお姿とおんなじくらいに驚きました。

 大叔母さまは、いったいなにをおっしゃっているのだろうと。


「きっと、おなじ女学校に通っていたからなのでしょうね。他にはなにも言わないのに、こうして貴女の名前だけをずっと呼んで……」

「いいえ、あの――ですが大叔母さま……」


 私が『ですが』と反論する前に、大叔母さまは釘を刺すかのごとく、このように言葉を続けるのです。




「きっと時子は、貴女に面倒を見てもらいたがっているのでしょうね」




 私は、やっと大叔母さまの思惑を理解することができました。

 なるほど、そういうことだったのかと。


 これは、あとで知ったことですが――、


 時子さまのこのお姿に、大叔母さまはもちろん、ご本家の方々はひどく驚き、シヨツクを受け、大叔父さまなどはずっと寝込んだきりなのだそうです。


 また、お屋敷の使用人たちは、だれもが、

『お嬢さまのお世話はしたくない』

『お姿も、気味が悪いので見たくない』

『夜中にお嬢さまの声が聞こえて厭だ』

 と次々ひまを取り、去っていってしまったのだとか。


 おかげで今、時子さまのお世話は、大叔母さまが自らなさっているのだそうです。


 よく見れば、時子さまのお着物は汚れたままで、しばらく布団を干した様子もなかったのですが、そのあたりの理由も、薄々ながら察することができました。


「ふみぃ……! ふみぃ……!」

「ほら、フミさん。今の聞こえたでしょう? はっきりと『フミ』って言ったわ! ねっ? ねっ、そうでしょう?」


 威張り屋ではあったものの、常に気高かった大叔母さまの、この態度――。


 変わり果てた姿となったのは、どうやら時子さまだけではなかったようです。


「お願い、フミさん! 貴女のご両親、我が家に借金をしているでしょう? それを帳消しにしてあげるから……。でも、もし、聞いていただけないなら――」

「おやめください、大叔母さま。時子さまご本人の前ですよ」

「本人なんて、どうだっていいじゃあない! 今は貴女の話をしているの!」


 とつぜん烈火のごとく怒る母親の姿は、芋虫などよりずっと醜く、

 時子さまは「ふみぃ」と布団の上で震えていました。


「ね!? 貴女が世話をなさいな! 言っちゃあなんだけど、本家にお嫁に来た私が、どうして今さらこんなことを! 私はこの子が赤ん坊のときだって、自分じゃおしめを替えたりなんかしなかったのよ。なのに、どうして今になって……。こんなの、さほど裕福でない分家の貴女がするべきじゃなくって!? そうでしょう!?」


 大叔母さまの態度は、無論、ひどく気に障るものではありました。しかし――、




「ふみぃ……。みぃ……」




 この、時子さまのお姿。

 それに、このお顔。


 私にとっては、ひさびさに間近で目にする時子さまのお顔です。

 女学校のころは、うんと遠くからか、でなければお背中しか見ることはできませんでしたから。


 かつて『だれよりもお強く、だれよりもお美しい』とよばれた、女学校中のあこがれだった時子さま――。


 彼女のお顔は、今もお美しくはありましたが、しかし

 その顔つきは、もう、きりりと凛々しくもなければ、精悍でもなく、


 ただ、おびえた目をして震えていました。

 花びらのような唇の下には、涎のたれた赤い跡。



 そんな彼女の姿を見て、私は、



 ――ぞくり



 とするような、なにやら言いようのない感激を覚えたのです。






 こうして私は、時子さまのお世話をすることになりました。

 タイピスト見習いの職を捨て、この『はなれ』に住み込みで。


 ですが、惜しくはありません。

 家の借金と引き換えですが、そんな条件などなかったとしても、私は大叔母さまの願いを聞き入れていたことでしょう。


 まして、憐みなどではないのです。

 私にとっては、もっと『身勝手』な理由でありました。


 だれよりもお強く、だれよりもお美しかった時子さま。

 だれからも好かれ、だれもが憧れた時子さま。


 蝶よ花よと育てられながら、今では肉親からさえ、毛虫のようにうとまれる、おかわいそうな時子さま。


 そんな彼女のお世話をしていると、あのときの、



『――ぞくり』



 という気持ちを感じるからです。




 あれから、もう半年――。


「ふみぃ……」

「ふふっ。お姉さまったら、また私の名前を呼んで……」


 お姉さまは、一日に何度も私の名を呼びます。

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