2 兵隊志願
♪ヒトノ厭ガル兵隊ニ 志願シテナル馬鹿モイル
『――アア、まさか、こんなことになるなんて』
(言葉の意味こそ違えども)時子お姉さまにも、私にも、これは共通した気持ちだったでしょう。
今の私たちがしている暮らしは、つい何年か前までは――まだ袴にリボンの女学生だったころには、想像すらできぬものだったのです。
近年、婦人の社会進出うんぬんの声が上がっているのは、皆さん、新聞などでご存知の通りです。
私たちの女学校でもその影響か、婦人体育の授業がありました。
週に一度、運動場にて、ブルーマー姿(乗馬ズボンもどきの上に短いスカートをつけた格好)にて徒競走や球技をさせられるのです。
私は生来、にぶい方でありましたから、この女子体育というものが厭で厭でたまらなかったのですが、その一方――。
この機を生かして、人気者になるお方もいました。
一学年上の須永時子生徒。
いわずと知れた、時子お姉さまです。
『――貴女、須永時子さまのご縁者なのですって?』
私の女学校生活で、一番多くかけられた言葉は、これでした。
そして、私は毎回うつむきながら、
『――ええ、まあ』
とだけ、答えるのです。
もともと人見知りで、話すことを苦手としていた私です。学び舎での三年間で私がした『会話』のうち、ほとんどはこの、
『時子さまのご縁者?』『ええ、まあ』
でした。
そして私が、親戚とはいえ、これまで二、三度しか会ったことのない程度の縁であること。
さらには、私が時子さまとは対照的な、陰鬱で面白みのない人間であること。
そんなことがわかるにつれ、皆、すぐに興味を失い、すうっ、と私から離れていくのです。
あと、言うまでもないことですが、私はいじめられました。
皆にとっては、私のように陰気で冴えない女が、時子さまと親戚であることが、ひどく生意気に思えたのでしょう。
これは、皮肉とも言えました。人見知りの性質がある私は、入学時、遠縁とはいえ“親戚のトキちゃん”が一学年上にいることを心強く思っていたのです。
なのに、その彼女のせいで、いじめられることになるなんて……。(ただ、その意味では、『時子お姉さまを利用しようとしていた』とも言えるでしょう。いじめられて然るべきだったのかもしれません)
結局、私は女学校にいる間、時子お姉さまとは一度も口を聞くことはなく、それどころか目線を合わせることすら、ほとんどありませんでした。
話がずいぶんと逸れました。
時子お姉さまは、婦人体育の成績が女学校中一番で、皆から、
『まさしく男まさり』
と称えられていました。
そんな折のこと。ご級友のだれかが、このように言ったらしいのです。
『――時子さまなら、兵隊になれるんじゃないかしら』と。
このころは、婦人運動が今より盛んな時期でした。――そんな流行りに乗って陸軍は、その年、婦人も兵隊に志願できるよう制度を改めたのです。
もちろん、これはただの『お題目』であり、一種の『洒落』。
この婦人志願兵制は、
『婦人の社会進出と男女平等こそ、この国の未来の姿である』
『だから男と同様、兵隊になる権利もある』
そんな名目のもと、形ばかり作られていた制度にすぎませんでした。ですが……、
『――この制度って、時子さまのためのものだわ』
『――ええ。だって時子さまは、並の男どもなんかより、ずっとずっと強いのですもの』
『――時子さまなら、どんな兵隊より大活躍できますわ』
『――世の男たちに、時子さまの力を見せてあげてください』
最初は、ほんの軽口であったのでしょう。
ですが、皆が口々に発するうちに、言葉は熱気を帯びていき、本人もその気になっていき――。
おだてられるがままに、彼女は兵隊に行きました。
女学校を退学して、さっそうと校門から去っていく時子お姉さまを全校生徒一同は、ばんざいをして見送りました。
――時子さま、ばんざい! 時子さま、ばんざい!
――我らが英雄、時子さま!
――だれよりもお強く、だれよりもお美しい時子さま、ばんざい!
そのとき、私も含めた全員の目には、絵物語のように大活躍する彼女の姿が、はっきりと見えていたのです。
手には銀のサーベル、胸には金の勲章。
糊のきいた軍服で、白馬にまたがり戦場を駆ける。
そんな、勇ましいお姿が!
時子お姉さまが大怪我で “人間いもむし” となられたのは、ほんの2ヶ月後のことでした。
しかも、戦争ではなく訓練中の事故だそうです。なんでも実弾演習の際に、砲弾の爆発に巻き込まれたのだとか。
聞けば、時子お姉さまは『本邦初の婦人兵』として新聞社の記者を引き連れて、鳴り物入りで軍隊入りしたものの――、
すぐに訓練で落ちこぼれ、ずっと雑用ばかりやらされていたそうです。
『だれよりも強い時子さま』といっても、しょせんはお嬢さまばかりの女学校でのこと。
話を聞き、私や女学校の面々は『そんなはずが』と驚く一方、内心では、
『言われてみれば、そんなものかもしれない』
と納得する気持ちもありました。
砲弾の事故とやらも、そんな落ちこぼれの時子さまに対する、他の兵隊たちの嫌がらせであったのかもしれません。
少なくとも、女学校では多くの者がそう信じていました。
ともあれ、お姉さまはそれから1年以上を病院で暮らし、つい半年前……。
やっと傷口が塞がり、這って歩く訓練も終え、今のお姿で地元に帰って来られたのです。
――この私のところへと!!




