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13 いじわる(後編の2)

「はなさん、貴方といっしょにしないでちょうだい!」

「いいや、おんなじさ。全然おなじさ」


 私は明智はなさんと、さんざん口論を繰り広げ――、


 気がつけば、怒って席を立っていました。

 ぺちゃんこな座布団を行儀悪く蹴り飛ばし、『ばか』『おたんちん』といった子どもじみた悪態をついて。


「お帰りかい? またいつでも遊びにおいでよ」

「ふざけないで! だれが二度と来るものですか!」


 私は、ぷん、と膨れ面のまま、玄関から飛び出します。(その際、物入れの手提(てさ)げを忘れてきたのですが、これは私にとって、のちにちょっとした意味を持つことになります)


 はなさんは追って来ません。

 裸の姿では玄関から出てこれないでしょうし、それを抜きにしても、わざわざ引き留めてまでするお話など、もうなかったのでしょうから。


 いえ、それどころか、なんとなくの面白半分で私の厭がるようなことを言いはしたものの、もとからこのフミ(わたし)という人間にも、時子お姉さまにさえも、さほど興味を持っていなかったのかもしれません。


 根っから口の悪い(ひと)でありましたから『そこいらのどうでもいい人』に対しても、あのような憎まれ口を叩けるのでしょう。

 それを思うと、私はますます不愉快な気分にさせられるのです。


 ただ、そんな折――。



「……フミさん、フミさん」



 玄関から出て、ほんの少し歩いたところで、私を呼び止める声がありました。

 はなさんのではありません。


「みどりさん……?」


 その妹、みどりさんのものでした。


 彼女はさっきまで姉と同じく素裸でしたが、寝巻き用の襦袢を羽織り、私を追ってきたのです。


 この子は、十かそこらの歳でありながら整った顔立ちをしていましたが、

 しかし、ひどく陰気な目つきをしており、しかも左側の目は見えていないのか、瞳孔は開ききり、わずかに正面から外れた方向を向いていました。


 さらには、病気がちで体が悪いと聞いていましたが、肌は死人のように真っ白で、手足も細くて枯れ枝のよう。ただ立っているだけで体はぷるぷると震えています。

 結ってないままの髪が風にゆらゆら揺れる様子は、まるで柳の木か、その下に立つ幽霊を思わせました。


 彼女はそんな、どこか薄気味の悪い、不吉な匂いの漂う少女であったのです。

 こんなものの考え方は、よくないものであるのでしょうが、


(はなさんは、よくこんな子と寝る気になったものね……)


 妹であることを抜きにしても、こんな気味の悪い子と……。

 私は正直、そう思うのです。


 ともあれ――。



「みどりさん、どうしたの……?」



 そう問うと、みどりさんは乾いてひび割れたくちびるで答えます。




「……フミさんは、よくないことをしたわ」




 あまりに、唐突な言葉でありました。


「よくないこと? 貴方のお姉さんと喧嘩したことかしら?」

「……ううん」


 見た目と同じく幽鬼のような、消えそうな声で続けます。


「……“ときこ”とかいうひとをいじめたのでしょう? それは、とてもよくないことよ」

「アラアラ、なんなの急に? いったい、なにが言いたいのかしら」

「……あなたが今日、(はな)とおんなじになったのは、一目見たときからわかっていた。……フミさんは、よくないものになってしまった」

「マア……」


 ぽつりぽつり、途切れ途切れに喋る様子は、まるで本当に人間(ひと)ならざるものと対面しているかのよう。

 それに、内容もひどく腹立たしいものでありました。


 この姉妹(きょうだい)、どちらもそろって気に障る……。



(そもそも、この子、本当に子どもなのかしら? 病気で背が小さいだけで、本当はもっと年上……。ううん、妹というのも嘘で、やっぱりこっちが姉なんじゃないかしら)



 前から何度か疑っていたことです。

 この死にかけの年寄りみたいな目で見つめられると、そんな突拍子もない疑念すら、頭に浮かんでしまうのです。


 もちろん、だからといって我慢してやる義理はありません。


「いいこと、みどりさん。貴方さすがに失礼だわ。そもそも――」


 私はこの子のことを軽くしかりつけてやろうとしましたが、しかし話の途中というのに彼女は、



 ――ぷいっ



 と無言のまま背を向けて、どこかへと去っていってしまったのです。


(マア! あらあら! やっぱり、姉妹揃っての礼儀知らずだわ!)


 ひとり、ぽつんと道端に残されてしまった私は、はらわたが煮えくり返るような心持ちのまま帰路につきます。












(私は、『よくないこと』なんて、なにも……)


 帰り道、歩きすがら、私はつらつらと考えます。

 明智姉妹の言っていたことが、どれほど間違ったことであったかを。


 ふたりが、どれほど頓珍漢な勘違いをしていたかを。



(そうだわ……。だって私は、お姉さまをいじめてなんかいないもの!)



 たしかに私は、出かける際、ほんのちょっとしたいじわるを、時子お姉さまにしてきました。


 鏡を出さずに、出かけてくるといういじわるを。


 でも、そんなのは大したことではないのです。

 いつも私は、お姉さまのお世話を献身的にしているのですし。


 もしも私が、普段から置かれている鏡を仕舞ってから出てきたのなら、それは悪いことなのでしょう。

 ですが、そうでなく、逆なのですから。普段している用意を省いただけです。


 こんなのは、ちょっとした悪戯にすぎません。


 いえ! そもそもが、いじわるや悪戯ですらないのです!

 だって、お医者の先生から『鏡を見せすぎるのは体に障る』と注意されていたのですから!


 お姉さまのためになることなのです。

 お姉さまのお体を思ってしたことなのです。

 お医者さまから言われて、お姉さまのためにしたことであるのです。

 お姉さまのためであるのです。


 それが、なぜ『いじめた』などという謂われを受けねばならないのでしょうか。

 これだけでも、明智姉妹の言っていたことが完全な間違いだとわかります。



(そう……。そうよ! やはり、私は明智はなさんなんかとは違うんだわ!)



 私はなにも悪くない。

 なにも間違ったことなどしていない。


 やっと自分の中で理屈を組み立てることができ、足取り軽く、お姉さまの待つ我が家へと帰ることができたのですが――。




 はなれの前にたどり着いたそのとき、窓から室内(なか)の光景が見えました。


 部屋にいる、時子お姉さまのお姿が。



「ふみぃ……! ふみぃ! ふみぃっ!」



 私は出かける際、鏡を戸棚の上に置きました。


 その高さは、床からほんの五尺足らず。


 この私にとっては背伸びすらいらない高さ――しかし、それは手足のないお姉さまにとっては、絶対に届かない、天上にも等しい、はるか遠くの距離であったのです。


 そんな決して届かぬ頭上を見あげ……、



「ふみぃぃっ! ふみぃ……ふみぃっ! ふみぃっ!」



 お姉さまは、戸棚のふもとで泣いていました。


 絶望的な断崖の下で、はらはらぽろぽろと涙を落して。


 戸棚のふもとにすがりつくように。

 なくなった後ろ脚で立ち上がるように、なくなった前脚で掴もうと伸ばすように。


 ぴょんぴょんと跳びあがろうとしながらも、今のお肉体(からだ)ではそれすらかなわず、うんと低いところでもぞもぞするだけ。

 そんな具合に、ただひたすら、必死に足掻(あが)いていたのです。



 もしも本物の芋虫ならば、この程度の壁面、余裕で登れたことでしょう。

 短い脚でぺたりと張りつき、よじ登っていけるはず。


 ですがお姉さまは、ただの怪我した人間。

 それが悲しくて、こうして鏡が置かれているはずの天上(戸棚の上)を見あげて涙を流していたのです。


 アア、お姉さま、おねえさま。

 なんと哀れなお姿かしら。



『本物の醜い芋虫になりたい』――それが今の彼女にとって、切なる一番の願いであったのです。



 私は、そんな時子お姉さまのお姿を見て、




(マア……。お姉さま! 私のお姉さま! まったくもって、なんて可愛い女性(ひと)なのかしら!)




 かわいい、かわいい、かわいい、かわいい!!

 お姉さまったら、かつぶしをほしがる仔猫のよう!


 しかも、こんな可愛らしいお姿になっているのは、この私のせいであるのです。


 私が、鏡を置かなかったから――。

 それによって、見せている可愛らしさであったのです! この私の力によって!!


 アア、なんという! なんという!




 時子お姉さまのお世話を始めてから、もうずいぶん経っています。

 お姉さまの素敵なお姿は、他にもいっぱい見ています。


 ですが、私はこのとき、これまでにないほどの、驚くべき興奮を覚えていたのです。



 生まれて初めての興奮です。

 自分の中に、こんな心があるなんて今まで知りませんでした。

 このような快感を感じ取れる神経があるとは、思いもよらないことでした。


 もしかすると、たった今、この瞬間、なにかに目覚めたのかもしれません。

 頭や背骨の中に神経が生まれ、つながったのかもしれません。


 明智はなさんの言葉ではありませんが――それはまるで、自分がべつの生き物にでもなったかのよう。

 それほど鮮やかな感動であったのです。



 たとえるなら、さなぎから蝶々になって羽ばたくような……。


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