幕間6「湯浴み(後編)」
「ふみぃー! ふみぃー!」
私の腕の中で、お姉さまはじたばた暴れます。
時子お姉さまは、お風呂好きで、お風呂に入れないと怒るくせに、その一方――。
赤ん坊扱いで、他人にお風呂を世話してもらうのは嫌いらしく、
いつも、このようにじたばたと抵抗するのです。
ことに、今日はご機嫌が斜めでしたから、このじたばたもひとしおでした。
「ふみぃーーっ!」
「いけません、お姉さま。暴れたら手から落ちて、頭を打ってしまいますわ」
私は落とさないよう、必死になって抱きしめます。
はだかの……一糸まとわぬ姿のお姉さまを!
私の両腕に、儚く、脆く、そして傷だらけの彼女の肉体を感じます。
なんという、弱々しい感触でしょう。
これほど力いっぱい暴れているのに、本当の赤子のよう。
気の毒なほどの弱さです。
ですが、それでも、じたばたされると(特に着物を脱いでいて掴むところも少ないので)うっかりと手からこぼれ落ちそうになってしまいます。
押さえつける私の側は、弱い力で済ますわけにはいかないのです。
「こらっ、お姉さま!」
「ふみっ! ふみぃっ!」
私は、そのお体を床に落とさぬよう、素早くたらいへと運び、そのまま湯の中へと入れました。
ばしゃり、とならないよう、そっと優しく。
「お姉さま、お湯加減はいかがです?」
「ふみぃ~……」
お湯に入れると、しばらくの間はおとなしくなります。
やはり、お風呂好きだからでしょうか。
それとも『もう、どうにもならない』と観念するからなのでしょうか。
ふみぃ~、と私の名を呼びながら、浅く張ったお湯に身を任せるのです。
そのお姿はまるで、一匹の巨大な金魚のようでもありました。
こうして、私も一息つくことができるのですが――、
問題は、このあとです。
「さ、そろそろお体洗いましょうね」
「ふみっ!?」
お姉さまは、綺麗好きで、もし自分の体から嫌な臭いがしたら、泣き喚いて大騒ぎをします。――ですが、その一方。
体を洗われるのは、大嫌いなのです。
「ふみぃー! ふみぃー! ふみぃー!」
またも、じたばた抵抗します。
もちろん、お気持ちくらいはわかるのです。
他人の手で、赤ん坊のように、
傷だらけの体を弄られる。
それも同性の手で。
――こんなの、だれでも嫌がって当然です。
たとえ、自分ではどうしようがなくても、そういうものであるのでしょう。
かといって、もし私が洗わなければ、お姉さまはもっと怒ります。
つまりは、私はどうしたって、お姉さまを不機嫌にしなければならないということでした。
「ふみぃーっ! ふみぃーっ!」
「はいはい、お姉さま、洗いますよ」
ここから先は、今まで以上に心配りが必要です。
なぜって、お湯の中での作業です。私が手を離したら、そのままお姉さまは溺れてしまうかもしれません。
なので私は、濡れ手ぬぐいに石鹸をつけると、うんと精神を集中させ、体力はさらにうんと使って、その小さなお体を洗うのです。
「ふみぃーーっ!」
お姉さまが暴れるたびに、私は手から落としそうになります。
シャボンだらけのお体を、お湯の中にどぼんと滑り落としそうになるのです。
私は、そんなとき思います――。
(アア……。もし、このまま――)
それは、前回のお湯浴みのときには、思いもよらぬ考えでした。
(もし、このまま落としてしまったら、どんな風になるのかしら……?)
私の支えを失った彼女は、お湯の中で溺れるでしょうか?
このたらいの中で、死にかけ、もがき、苦しむでしょうか?
今、彼女は『機嫌が悪い』というだけで、この私に敵意むき出しで暴れています。
ですが、私が手を離したとき、どんなことが起こるのでしょう?
私の手が掴んでなければ、貴女は、
この狭いたらいの中でさえ、ただ生きることすら、できないのです。
そのことを、ついに知るのでしょうか? アア……。
(アア……。手を離したいはなしたいハナシタイ……)
この、はだか金魚が、ぬるま湯のたらいで、ばしゃばしゃと溺れる姿を見たい。
ほんの一尺すらない高さのたらいの壁を越えられず、絶望する顔を見たい。
『ふみ』と私に助けを呼ぶところを見たい。
それでも助けず、泣かせたい。
(はなしたい離したいハナシタイハナシタイはなしたい……)
それをしたら、どれほど楽しい気持ちだろうか。
お姉さまのお体を洗いながら、私はそんなことを考えていたのです。
誤解しないでいただきたいのですが、これはお姉さまのことが嫌いだからではありません。違うのです。そうじゃないはずなのです。
『もう世話をするのが嫌になった』とか、『面倒を見てる自分に対して、その恩知らずな態度が許せない』とか、そんな程度の理由ではありません。
私の中にあったのは、そのような不純な動機でなく……、
お姉さまを――須永時子をいじめたい。
ただ、それだけの純粋なものでした。
世界で唯一たったひとり、この私しか頼れる人のいない時子お姉さま。
――その彼女に、意地悪をしたい。
そんな、純粋な“ひとでなし”の心であったのです。
私はお姉さまが溺れ、私に『ふみぃ』と助けを求める姿を想像し――さらには、それになかなか手を差し伸べないところを想像し、ぽやあ、と夢ごこちになっていました。
よだれくらい垂らしていたかもしれません。ですが、
「ふみぃ……?」
お姉さまの声で、はっ、と現実に引き戻されました。
「アア、ごめんなさい、お姉さま。手が止まっていましたね。すぐに洗いますので……」
「ふみぃ」
私は、慌てて『お姉さま洗い』の続きをします。
相変わらず、お姉さまはじたばたと身をよじっていたため、腕はうんと疲れるのですが――、
(うふふっ……。お姉さまのお体、なんて触りごこちなのでしょう)
現実の時子お姉さまも、そう悪いものではありません。
溺れてもいなければ死にかけてもいませんが、そのかわりに手ぬぐいごしにお肌の感触が伝わります。
傷の縫い目や、火傷の痕、お饅頭状の手足、それぞれ触りごこちが違い、さまざまな感触が楽しめるのです。
それはまるで、多くのものが――いえ、世界の全てが詰まっているようでもありました。
ああ、やはり間違っていた。
よからぬ想像をしてしまった。
そんな後悔をしながらも、私は作業を続けます。
お風呂が終わったのは、小一時間も経ってからのことでした。
私が、体を拭き、新しいお着物に着替えさせ、さっぱりとしたお姿なったあと、お姉さまは、
ころん
と座布団の上に転がります。
「ふみぃ~……」
その幸せそうなお姿に、私は思わず笑みをこぼします。
ああ、やはり間違っていた。よからぬ想像をしてしまった。
さっきの自分は、どうかしていたのだ。
あんなのは、本当の自分の心ではない。
ちゃんと正気にもどってよかった。
――そんな理性の声とは裏腹に、
(…………ちぇっ)
『あのとき、本当に手を離していたら、どうなっていただろう?』
『機会を逃すべきではなかったのでは?』
そんな気持ちも、たしかに芽生えていたのです。
(アア、お姉さま、おねえさま……)
気がつけば私の唇には、いつもと異なる笑みが浮かんでいました。
きっと、明智はなさんの顔と似ていたはずです。