9 衝動
アア、お姉さま、お姉さま――。
私が“はなれ”の戸を開けると、時子お姉さまは座布団の上で猫の子のように寝そべっていました。
これは、私が出かける前とおんなじ姿勢。
出かけるとき、私は鏡を床の上に、壁に立てかける形で置いていきましたが、
それから、およそ3、4時間ほど。
お姉さまは、ただじっと、座布団の上で、その鏡を眺めていたようです。
私が留守のときは、お姉さまはたいてい、そのように過ごしているのが普通でした。
そして――、
「……お姉さま、ただ今、帰りました」
私がそのように声をかけると、お姉さまはこちらの方に顔も向けず、ただじっと鏡を見つめたまま、
「…………ふみぃ」
とだけ返事をするのです。
どうやら、ご機嫌があまりよくないようです。
お顔も、むすり、としてました。
時子お姉さまのご機嫌というのは
『髪のはげがちゃんと隠れてなかった』だの、
『ふだんより顔が太って見えた』だのと、
その程度のことで悪くなったり、よくなったりするものでした。
きっと今日も、なにか厭なことがあったのでしょう。
(もちろん、『厭なこと』というなら、彼女の毎日は『厭なこと』の続く日々ではあるのでしょうが……)
「アラアラ、よしよし。お姉さま、いい子、いい子……。お機嫌、直してくださいませ」
私は床に座ると、その軽いお体を膝に抱き上げ、よしよし、とあやします。
赤ん坊にするのと同じ要領です。
「よしよし、いい子……。お願い、そんなお顔なさらないでくださいな」
「ふみぃ、ふみぃ……」
最初は、膝の上でじたばたとしていたお姉さまですが、そのうちに、ぷくうとした膨れっ面も、いつもとおんなじ程度になり、私はほっと一息つきます。
よかった。幸せ。
お姉さまが穏やかな気持ちで日々を過ごすのは、私にとっての喜びでもあるのです。
本当です。嘘じゃありません。
お姉さまが穏やかな気持ちで日々を過ごすのは、私にとっての喜び。
そのはずなのに――、
(マア……。お姉さまったら、生意気だわ)
―― 一瞬。ほんの一瞬だけ。
そんな気持ちが、なぜか私の頭に湧き上がったのです。
(きっと、はなさんなら、お姉さまをぽこりと蹴っているところでしょうね。それとも、ほっぺを抓ってるかしら)
私がいなければ生きていくことさえできないのに、私に対して、この不遜な態度。
明智はなさんなら、ぜったい許してないでしょう。
(いえ……。私、なにを考えているんだろう! お姉さまのお世話ができるというだけで、私は幸せであるというのに!)
なのに、今、自分の中に、ほんのちょっぴり、少しだけ、
『――お姉さまを、蹴ったり、抓ったりしたい』
などという想いが芽生えたのです!
(本当に私、どうかしている……。今まで、そんなことを思ったことはなかったのに)
お姉さまが不機嫌なときも、世話をする私に対して愛想がよくないときも、これまでは少しも厭じゃなかったのに。
むしろ、膨れっ面や冷たい態度を向けられたときこそ、
『それこそが愛らしくてたまらない』
と、幸せに感じていたというのに。
なのに、このような気持ちを覚えるだなんて……。
こんなのは、間違いなく明智はなさんのせい。
彼女との再会が、私の心をひどく乱してしまったのでしょう。
もう、あの女のことは許せません。
ですが――。
(アア、お姉さま、お姉さま……!!)
膝の上の小さなお姉さまのやわらかなほっぺを抓りたい。
黒髪の艶やかな頭をこつんと小突きたい。
その日、お姉さまは夕食を、床からの『犬食い』で食べていましたが、
その胴体や尻を、ぽこっ、と素足で蹴ってやりたい。
そんな気持ちが、むらむらと熾火のようにくすぶるのです。
ことに、足で蹴る感触は、想像するだけで背筋が震えるようでもありました。
私が必死に、この邪悪な衝動に耐えていると、
「ふみぃ……?」
お姉さまは、そんな私の顔を、不思議そうに眺めるのです。
「ふみぃ、ふみぃ……」
「ううん……。お姉さま、なんでもありません……」
私は自分の感情を、理解することができませんでした。
このときは、なぜ、こんなことを思ったのだろう?
なぜ、『愛しいお姉さまを痛い目に合わせたい』などと?
もしかすると自分は、お姉さまの世話をできて幸せなどと口にしていながら、本当は――その心の中では、世話が厭で、彼女のことを憎んでいたのか? もう役目を投げ出したいと思っていたのか?
……そんなことさえ疑いました。
幼い赤子の母親は、よくそのような気持ちになると聞いています。
口では、わが子は可愛いと言いながら、心では疲れで憎悪を溜めているのだと。
ならば、自分もそうであったのでしょうか? 私はそれを不思議に思っていたのです。
――結論から言えば、それとは異なるものでした。
正体は、もっと汚く、いやらしい感情。
お姉さまが『嫌いだから』蹴ってやりたい。――それとは正反対の衝動であったのです。
それがわかるのは、もう、ほんの少しだけ先のことではありましたが……。