8 踊る一寸法師(後編)
「ふえええんっ! おねーたんっ! おねーたんっ!」
「ははッ。いいから、こっちに来な」
明智はなさんは、女学校で唯一、私をいじめなかった人――。
その彼女が、まさか家では妹にこんなことをしていたなんて!
はなさんは、しみだらけの座布団の上に、男の人のように胡坐をかくと、
その膝の上に、小さな妹を乗せました。
その姿は、まるで猫とでも戯れているか、あるいは、
時子お姉さまのお世話をしているときの私のよう……。
唯一、妹さんが泣いていることだけが違っていました。
はなさんは、言いました。
「実はね、借金を申し込みたいんだ。須永家にさ」
時子さまのご実家である須永のお家に?
なんでも、はなさんが言うには、少し前に、
彼女の伯母だか従姉だかが、須永の分家にお嫁入りをしたのだとか。
なので、はなさんは今、須永家とは遠縁の親戚。
私よりもさらに薄くはありますが、縁ができたということです。
「せっかくの、お金持ちの家との縁だ。金を借りたくなるのが人情というものだろう? 実際、暮らしにも困ってるのでね」
「そう……。では、本家の人たちに話しておくわね」
「ああ、それなんだが――。なるべく、こそっ、と借りれないかな?」
「…………? マア、なぜなの?」
彼女は、妙なことを言うのです。
私が理由を聞きますと、あきれるようなものでした。
「知らないのかい? 親戚連中じゃ、すっかり噂になってるらしいよ。
今、本家に借りを作ると――、
『時子さまのお世話をさせられる』
ってね」
当然ながら、私は驚きました。
知らないところで、そんな噂が立っていたなんて。
しかも、それは、ある意味、まぎれもない真実であったのですから。
「年頃の娘がいれば、お世話をするはめになる。
年頃の息子がいれば、婿入りをするはめになる。
ぼくは、そう聞いてるよ。君の身の上も知らされたけど、どうやら嘘じゃないらしい」
「マア……!」
「君、無理やり、面倒を見させられているんだろう?
ぼくまで追加でやらされたくないんだ」
「マア……まあまあまあ、まあ!」
私は、言ってやりました。
「はなさん、その物言いは不愉快よ!」
たしかに私は最初、そのような形で、あの“はなれ”に連れて来られました。
ですが、無理やりやらされているわけではなく、自ら好きこのんで、お姉さまのお世話をしているのです。
そもそも、こんな誇らしいお役を、だれが他人に渡すものですか!
もし、大叔母さまが追加でだれかを“はなれ”に呼ぶと言い出しても、私はぜったい認めません。
あの小さなおうちは、私とお姉さま、ふたりきりの場所なのですから……。
私が、きっ、と、はなさんを睨むと、彼女はくすくす笑っていました。
「オヤオヤ、意外だね。君がそれほど怒るだなんて。どうやら、よっぽど悪いことを言ってしまったらしい。許しておくれ」
「いえ……」
「ふふ。アア、でも――本当に驚きだ。
君は卒業してから変わってしまったのかな? それとも、隠していただけで、本当はそういう子だったのか? そんな風に、怖い顔ができるとは!」
あきれたものです。私は言い返してやりました。
「それは、私の言いたいことだわ。
貴女こそ、卒業してから変わってしまったの? それとも、隠していただけで、本当はそういう子だったのかしら?」
まさか人に――病気の小さい妹に、そんなひどいことができる子だったなんて!
この話をする間も、はなさんは自分の膝で抱きかかえた妹を、ずっと頬を抓ったり、頭をこつんと小突いたり。
ちょっとした手慰みのつもりなのでしょうか?
それで妹が、ぎゃんぎゃんと泣き声を上げると――、
「うるさいッ!」
と、やや強い力で、横っつらを叩くのです。
その後、この子はずっと、着物の裾を噛み、声を殺して泣いていました。
「ふぇぇ、おねーたん、おねーたん……」
はなさんは、夏の空のような晴れ晴れとした笑顔で答えます。
「フミさん、ぼくは変わってないよ。前からこういうやつだったのさ。女学校時代も、家ではずっと、この子をこうしていたのだし」
「マア……」
「それに、この子はそんなに嫌がってないよ。
共依存、というやつなのだろうね。この子は体が弱いから、僕が面倒見ないと生きていけない。――君んとこの時子さまと同じさ」
お姉さまの名を出され、私はますます、むっとした顔になっていたと思います。
しかし、彼女は構わず話を続けるのです。
「この子は体が弱いから、僕が面倒見ないと生きていけない。……で、その対価が、これさ。
かわりに、この子は、ぼくがいじめるのを甘んじて受け入れる。八百屋で大根買ったら、お金を払うだろ? 同じだよ」
「はなさん、貴女、なにを言ってるの!?」
「聞いての通りさ。きっと、妹も理解してる――いいや、それどころか、本当は喜んでるんじゃないのかな?
ぼくにいじめられることで、初めてだれかの役に立てるんだ。ねえ、そうだろ、みどり?」
急に質問をされた妹さんは、
「ふぇぇ、おねーたん、おねーたん……」
と、ただ泣いているばかりでした。
「はなさんが、そんな人だったなんて……。私をいじめない、やさしい人だと思っていたのに――」
「そうは言うがね、ぼくはやさしい人だよ。実の妹の面倒を見るために、時子さまの世話を避けようとしてたんだ。一人だけで精一杯だからね。やさしいだろ?
それにさ、君をいじめなかったというが――」
そして、はなさんは、なんともひどく無残なことに……、
「こいつをいじめてたから、ぼくは君をいじめずに済んだのかもしれないよ? 家でたっぷり楽しんでたからね」
と、思い出すべてを台無しにするようなことを言ったのです。
……そのあとのことは、私はあまり憶えていません。
ただ、もう10分ほど、はなさんと論戦を繰り広げ、私がいよいよ我慢できずに席を立つと――、
「玄関まで送るよ」
と、彼女も座布団から立ちました。その際、ついでに、
――ぽこっ
と、また妹さんを蹴ったのです。
尻のあたりを、戯れに。
畳の上を、ころん、と転がる、その幼く病弱な少女の姿――。
それが私には、ひどく印象に残るものでした。
その後、私はおうちに帰ります。
お姉さまの待つ、あの“はなれ”へと。
はなさんのしていたことは許しがたく、胸がむかむかするほどの行為でしたが……、
「……お姉さま、ただ今、帰りました」
「ふみぃ」
お姉さまのお姿を見た瞬間、なにやら、えも言われぬ衝動が、
むらむらと心の奥で湧き出したのです。
(ああ、なぜだろう……。
お姉さまを、ぽこり、と蹴りたい)
明智はなさんが、自分の妹をそうしたように――。
どうして、そのように思ったのか、私にも理解できません。
自分自身でも正体のわからぬ、言葉にできない心の動きでした。
……おはなしは、まだ続きます。