7 踊る一寸法師(前編)
「それでは、行ってまいります。お鏡、ここに置きますね」
「ふみぃ」
私はいつものように、鏡をお姉さまの見える場所に置きました。
私が留守にして、お姉さまを一人きりにするときは、かならずこのようにすると決めています。
鏡に映るご自分のお姿は、お姉さまにとって、つらく苦しい心を慰める唯一のものであったのです。
こうして、私は出かけます。
明智はなさんのところへと。
明智はなさんは、私たちの学年で一番の問題児です。
これは、わざわざ言うまでもないことですが――。
女学校というのは、作法と学問を身につけるための場所であり、普通はもとからある程度、品のよい子が集まるものです。
しかし、はなさんは例外でした。
彼女は名家の令嬢ではありましたが、あまりにも家での行いが悪いため、女学校へと放り込まれた子であったのです。
(言うなれば、尼寺や婦人刑務所のかわりに、われらが学び舎が使われたということでしょう)
先生の机から財布を盗んだだの、男子学校の殿方たちと夜遊びしていただの、悪い噂の絶えない子でした。
なので、女学校中の鼻つまみ者で、だれもが彼女を避けてましたが――、
しかし、私とは意外と仲よくやっていました。
鼻つまみ同士、ということでしょうか。
朝、顔を合わせれば挨拶を交わし、ときには二言、三言、世間話などもして――あとは、よく宿題や課題を写させてあげたり。
私の孤独な女学校暮らしの中で、唯一、友人と呼べる存在は、あの問題児であったのです。
それを『友人』や『仲よし』と呼ぶかどうかは、きっと異論もあることでしょうが、少なくとも彼女は私のことをいじめたり、面と向かって悪口を言ったりはしませんでした。
なんにしても、それも既に過去のおはなし。
女学校を卒業して以来、彼女と会うのは、これが初めてになります。
噂によれば、ご実家の商売が失敗したとかで、いろいろ苦労をなさっているのだとか。
私も気にしてないわけではなかったのですが――しかし、かつてお住まいだった大きな屋敷も人手に渡り、行方もわからず、手紙を出すこともできなかったのです。
手紙に書いてあった住所は、町の賑やかな通りからそう遠くない場所にある、こじんまりとした一軒家。
玄関の前で「ごめんください」と声を上げると、すぐに彼女が出迎えます。
「ヤアヤア、フミさん。よく来てくれたね」
私の目の前にあったのは、卒業前とあまりに変わらぬ明智はなさんの姿でした。
「おあがりよ。今、お茶を出す。――ここ、狭いが、いい家だろう?」
ええ、小じゃれた外観のいい家です。
しかし、玄関から上がると、中は物置小屋のように散らかっていました。
掃除もろくにしてないらしく、履物を脱いで家に上がると、ほこりで足袋の汚れる感触が伝わってきました。
――それと、狭いというのも本当です。見たところ、二部屋ほどしかないようですので。
かつて『ご令嬢』と呼ばれた娘が住むには、あまりに質素な家でした。(はなれ小屋に住む私がとやかく言える筋合いはありませんが)
「この家は、本当はお父様が芸者あがりのおめかけ(・・・・)を囲っていた別宅なんだ。その女を追い出して、今じゃ“ぼく”と妹が住んでいるのさ」
はなさんは相変わらず、少女歌劇の役者のような喋り方をしています。
自分のことを『ぼく』と呼ぶのも、作法の先生にさんざん叱られたというのに(それとも、叱られてむきになっていたからか)ずっと直ることはありませんでした。
「妹さん? はなさん、妹さんなんていらしたのね?」
「ああ。出来のひどく悪いのがね。――オイ、ちびすけ。お客様に挨拶しろ」
彼女が呼ぶと、その『ちびすけ』が奥の部屋から半分だけ出てきます。
半分開いたふすまの陰から、ぴょこり、と恥ずかしそうに顔を出し、小さくお辞儀をしたのです。
それは見たところ、まだ子供――10歳にも満たない少女のように見えました。
(……子供、よね?)
そう疑ってしまったのは、この子があまりに陰鬱で大人びた目つきをしていたからです。
まるで、実際は私やはなさんとそう変わらない歳であるのに、なにかの事情で子供の姿をしているような……そんな風にも見えました。
いえ、それどころか『本当は姉である』と言われても、私は信じていたでしょう。
また、それを抜きにしても、どこか体の具合でも悪いのか、やたらに痩せていて色も白く、昼間であるのに寝巻きの襦袢姿でした。
なにやら、わけありであるのは間違いありません。
「こいつは、みどり。生まれつき体が弱くてね。家が破産したせいで、ぼくがこの妹の世話をしなきゃいけなくなったのさ。アア、面倒くさい」
『緑』というのは、けっして悪い名前ではありません。
しかし姉の名が『はな』であることを考えると、
『花が咲いてないから、緑』
という意味ではないのかと、つい勘ぐってしまいます。
姉から面と向かって『世話が面倒くさい』と言われた妹さんは、当然ながら悲しそうな顔をしていました。
「フミさん、そのへんに座って待ってておくれ。こんな家でもお茶くらいはある。キミが手にしている、それ、お土産の茶菓子だろう? 今からさっそく食べようじゃないか」
そう言って、はなさんは奥の部屋へと向かい、
ふすまの陰からこっちを覗いている小さな妹とのすれ違いざま……、
――ぽこっ
と、妹の頭を小突いたいたのです。
意味もなく。唐突に。
「はなさん……? 今のは、なに?」
「ああ、今の? べつに。なんとなく殴っただけさ。ただの癖みたいなものだよ。――普段、面倒を見てるんだ。遊びでこのくらいやってもいいだろ?」
そう言って、さらにまた必然性もないままに、
――ぽこんっ
と、妹の尻を、蹴りました。
蹴られたみどりさんは、泣き出します。
「ふえええんっ、おねーたんっ! おねーたんっ!」
「ははッ。どうだい、面白い顔で泣くだろう? お茶が入るまで、そいつで退屈をしのいでるといい」
明智はなさんは、女学校時代、私のたったひとりの友人で、唯一、私をいじめなかった人。
なのに、まさか、こんなことをするなんて……。
私は、ただただ驚くばかりです。