1 花と蟲
サイタ サイタ サクラガ サイタ
ススメ ススメ ヘイタイ ススメ
「ふみぃ! ふみぃ!」
「はいはい、お姉さま。フミでしたらここにいますよ」
女学校中のあこがれだった“時子お姉さま”が兵隊に行ったのは、今から2年前のこと。
彼女が16になってすぐでした。
枝戸川女学の須永時子といえば、全校で一番もてる女の子。
体育の授業で徒競走でもすれば、くちばしの黄色い12歳の1年生から、すっかり大人びた17歳の5年生まで、みんなで窓から身を乗り出し、きゃあきゃあとはしたなく歓声をひり上げたものです。
高い背に、ほんの少しだけ日焼けした肌、すらりと長く伸びた手足、それに美術教室の石膏像みたいに整った顔立ち。――そんな美しい少女が長い髪をなびかせながら運動場を駆け抜ける姿は、まるできらきら輝く流れ星。
そのように素敵なお方でしたから、当然、だれもが彼女に恋をしました。
女学生特有の恋慕とも憧憬ともつかない潤んだ瞳で、皆、遠くからそのお背中を見つめたのです。
私もおんなじ。
遠い親戚でもある私にとって“宗家筋のトキちゃん”こと時子お姉さまは、世界一格好良い少女でありました。
足も、だれより速く、握力も幅跳びも学年一位。皆は口々にお姉さまを、
『――時子様の体力は男子まさりね』
『――ううん、そこいらの男子なんかより、ずっとずっと強くてよ』
『――そうよ。だって昔、となり町の男子3人を相手に喧嘩をして、追い返したというじゃないの』
『――子供のころでそれだから、今はもっとお強いのね』
と、ことあるごとに褒めそやし、そして彼女は――、
おだてられるがままに兵隊に志願し、
こんな躯になって帰ってきました。
「ふみぃーっ! ふみぃーっ!」
「はいはい、フミですよ。そんなに何度も名を呼ばなくてもだいじょうぶです。ほら、鏡をご覧になりたいのでしょう? お姉さまは鏡が大好きですものね」
これが、18になったお姉さま。
私は座布団の上で、そのお体を「よいしょ」と膝に抱え上げると、手鏡でそのお姿を映してあげます。
お姉さまは一日に何度か、こんな風に落ち着かなくなって、わあわあと声を上げることがありました。
ですが、たいていの場合、こうやって鏡を見せてあげると、すぐにおとなしくなるのです。
わざと少し曇らせていた鏡には、彼女の小さな姿が映っていました。
すっかり日焼けが冷めて白くなったお顔に、昔と同じ長い髪。それに――、
『 手 足 の な い 体 躯 』が。
そのお姿は、まるで芋虫。
あるいは生きた血肉の達磨さん。
あの、すらりとして、同じ女の目から見ても艶っぽかった手足は、大砲の弾だか爆弾だかに、すっかり引き千切られてしまったのです。
今では、四肢とも付け根からほんの3、4寸程度の長さを残すのみ。
傷口は皮膚で埋まって、ぷにぷにとした瘤状のふくらみとなっています。たとえるなら大福餅か、そうでなければ女学生の未熟な乳房。
もちろん、今、その『大福餅』は見えていません。このようなお体とはいえ、ちゃんと着物を着ていますので。
生地は高級なものですが、幼い子供が着るような、うんと派手な花模様……ううん、実際、子供用の着物でした。
今のお姉さまにはこの大きさがちょうどいいので、人からお下がりでもらった子供用のよそいきを普段着使いしているのです。
袖や肩、脚の部分は、当然ながら『中身』がないため、だらりと真下に垂れていました。
傷大福が隠れれば、その姿は遠目には赤ん坊のごとく映ります。頭と体の比率で、そのように見えるのでしょう。
しかし、よくよく見れば、髪は長くて明らかに嬰児のそれではなく、そのお顔も紛れも無く、十代後半の少女のもの。
美しい、あの須永時子の顔、そのものでした。
ちなみに、体重も幼い子供と同程度。
手足というものは骨と筋肉でできてますので、なくなると重さがうんと減ります。私の膝に乗る重みは、あまりに軽くて儚げで――その意味では、世話がしやすくていいとも言えました。
今、私は左の手で鏡を持ちつつ、右手一本でお姉さまの体を抱きかかえていましたが、もし彼女にちゃんと人並みに重みがあれば、すぐに疲れてしまったでしょう。
私は手鏡の位置を調節し、うまく顔だけを映します。
だらりと垂れた袖口や、その他の厭な部分が隠れるように。
昔と変わらぬ、綺麗なお顔と艶やかな黒髪だけが、お姉さまの目に入るように。
「お姉さま、ご覧になれます? 時子お姉さまは、昔と同じでお美しいわ。お世話ができて、フミはとても光栄です」
「ふみぃぃぃ……」
お姉さまは鏡を見ながら、はらはらと涙を流していました。
これもまた、いつものことです。
「ああ、お姉さま、お泣きにならないで。目が腫れて、せっかくの美貌が台無しになってしまいますわ。それに、お着物も。女学校の皆が、ご好意でくださったものですのに」
「ふみぃ……! ふみぃっ! ふみぃっ!」
「ふふっ。はいはい、そうですね。そんなもの、たしかに、なんの価値もないものかもしれません。――でもね、安心なさってくださいな。フミはずっと、ここにいますよ」
そう言って、お姉さまを抱く右手に、ぎゅっと力を籠めました。着物ごしに柔らかな肌や華奢な骨格、それに例の大福餅の感触が伝わってきます。
私が強く抱きすぎて痛かったのか。それとも手鏡の角度が変わって、肉体の見たくない部分が映ったためか。時子お姉さまは、
「みいいっ!?」
という叫び声を上げながら、なくなった手足をぱたつかせていました。
こんな時子お姉さまのお姿を見て――、
口汚い者は、『みにくい』『ばけもの』と陰で囁き、
心優しい者は面と向かって、『憐れ』『お気の毒』と、さらにひどい言葉を投げかけました。
ですが、私――門野フミは、膝に儚げな重みを感じながら、思うのです。
(ああ、嬉しい……。まさか、こんな日が来るなんて――)
神様、ありがとうございます。トキちゃんから手足をもいでくれて。
――そんなことを思う私は、とんでもない人でなしであるのでしょう。
「ふみぃ、ふみぃ……」
「よしよし、フミはここですよ」
お姉さまは、何度も私の名前を呼んでくださいます。
ああ、嬉しい。ああ、しあわせ。
薄曇った鏡に私たちは、まるで母親が赤ん坊をあやしているような姿で映っていました。
……おはなしは、女学校時代にまでさかのぼります。