16.泥の魔術師
時雨が小屋の中に入ったとほぼ同時に、アリアネはその気配を察知した。
「ムルカ、後ろに下がれ。何か居る」
アリアネがムルカを庇うようにして前に出ると、小屋を挟んで反対の茂みから、長髪の男がゆっくりと姿を現した。
「これは僥倖。これほど早く見つかるとは我々も思ってはいなかった」
「何の話だ? それに、貴様は誰だ?」
「お前には話していない。後ろの小娘だ」
アリアネはわけがわからないという顔でムルカを見た。
彼女の目が震えていることを感じ、アリアネはボルボロスを見据え、言った。
「貴様が追手というやつか」
「追手?」
「貴様は私に用がなくとも、私は貴様に用がある。マリスの部下だな? いや、答えなくていい。あとでゆっくりと聞こう」
話ながらアリアネは背のグレートソードを引き抜いた。
その瞳に赤色がちらついたところを、ボルボロスは見て、笑った。
「ああ、お前はあの人狼の親族か。マリス様が覚えた呪術を試したいと呪いをかけたあの冒険者ギルドの」
アリアネは安易な挑発に反応しなかったが、少しばかり、剣を握る手に力がこもった。
「何が目的だ?」
「今言ったではないか。試したかったからだ。あとのことなど知らん」
「その呪いのせいでステラは死にかけている。解呪する気はないか?」
「あの人にそれを頼むのは無理難題だと思うが……。もっとも、あの人に会うことすら出来ないだろう」
「会わせてもらうぞ」
走り出そうとしたアリアネをムルカが腕を掴んで止める。
「どうした?」
「あいつは、ボルボロス。泥の魔法を使う魔人です。剣で戦うのはやめた方が……」
「だったらどうする? 私にはこれしかない。ただ切るだけだ」
「二人でやりましょう。奴に食らいつくチャンスを作るまで、少し引きつけておいてください」
アリアネは頷いて、ボルボロスへ向かって歩き始めた。
泥の魔法を使うというのなら、魔方陣が出る瞬間を見定めて動かなければ、常に足元をすくわれる危険がある。
「作戦会議は終わったようだな」
ボルボロスの足元に灰色の魔方陣が出現し、アリアネとの間に無数の泥人形が地面から沸き出るようにして現れた。
その一つ一つが成人男性と同じような体格をしており、武器を持っていないと言えども、決して油断できるものではない。
アリアネは腰を深く落とし、体をねじると、ステラに放った時よりも速く強く剣を横に薙いだ。
濃く青い風と化したアリアネの斬撃は、容易く泥人形たちを飛沫へと変えていく。
アリアネが強いこともあるが、それを差し引いても違和感のある柔らかさである。
こんなもので戦えるはずがない、と考えたアリアネが刀身を見ると、先程切った泥人形の飛沫がこびりついていた。
嫌な気配を感じ取り、泥を払おうと剣を振ろうとした時である。
「剣が動かない!?」
地面と剣とをつなぐように、泥の糸がいくつも絡み合って伸びていた。
それはまるで蜘蛛の糸のようにねばりつき、力づくで逃げようとしても、まったくそれを許さない。
アリアネはこの剣は使えないと判断し、同時にムルカが剣では戦えないと言っていた意味を理解した。
手を離しても空中に固定されたままの剣を捨て置き、後方へと跳ねた。
距離をとっても仕方がないのだが、剣を捕えたように体を掴まれてはまずいと判断したのだ。
グレートソードを手放したものの、武器がないわけではなく、緊急用の小型ナイフは腰に常備してある。
しかしそれも相手の懐に飛び込まねば効果を発揮させられない。
ナイフを投げることも考えたが、この一発で動きを止めるには急所を狙うしかなく、それでは倒せたとしても目的であるマリスの話を聞き出すことが難しくなる。
長く色々な相手と対峙したことのあるアリアネであっても、魔人と戦うことは初めてであり、これほど攻めあぐねたことは久しぶりであった。
ムルカの準備が終わるまでどれほどかかるのか、アリアネには分からないが、少なくともまだかかるはずだ。
素手で時間を稼ぐ方法があるだろうか、と時雨が入っていった小屋の方を見ると、突如、室内に爆炎が上がった。
予期せぬ爆熱に思わずアリアネは腕で顔を覆った。
「トキサメ!!」
思わず叫ぶが、返る声はない。
最悪の事態を想定して歯噛みをし、ボルボロスの方に目をやると、彼も驚いて小屋の方を見ていた。
どうやらこれは前もって用意された作戦や罠ではなかったらしい。
アリアネはこれ幸いと、集中が途切れて硬度を失った泥の網から剣を引き抜き、泥人形の群れへと飛び込んだ。
「フッ、無駄なことは分かっただろう。突撃しか脳のない馬鹿め」
「馬鹿なりにやりようがある!」
アリアネは人形に向けて剣を振った。
重い剣から生まれる遠心力に身を任せて振り続けた。
先程の失敗は、泥を見て動きを止めてしまったことだ。
常に動き回っていれば、泥はついた端から振り落とされ、次の泥がつくも、振り回される剣の表面に残り続けることが出来ない。
暴れ狂う獣を前に、まるで障害とならない人形たちは次々に吹き飛ばされていく。
「馬鹿め。これほど激しい動きをして体力が尽きないはずがない」
ボルボロスは笑って見ていたが、減り続ける己の僕に若干の焦りが芽生え始めたようであった。
アリアネの勢いは衰えることなく、剣の嵐はボルボロスへ向かって進んでいく。
「人形たちよ! その者を取り囲め!」
ボルボロスの命を受け、残り少なくなった泥人形たちはいっせいにアリアネへ向かって真っ直ぐ突撃した。
最初は全て弾けていたが、次第に数に押され、ちぎれた人形たちの一部がアリアネの体へと張り付いていく。
そのせいで動きが鈍り、剣を振る動作が間に合わなくなってくる。
「ハハハ、どうだ。汚らしい騎士め! こうなってしまってはその巨大な剣も形無しではないか!」
まるで泥の鎧を身にまとったかのように全身を包まれ、一切の身動きがとれなくなったアリアネを指さしてボルボロスは笑った。
「このまま押しつぶしてくれる」
ボルボロスが手の平を向けたその時である。
「アグノス、行って!」
ムルカの声と同時に、骨犬がボルボロスの右腕へと噛みついた。
ボルボロスは驚いて噛みつく犬を振り飛ばした。
「よくも、貴様!!」
ボルボロスはムルカを睨もうと顔を上げたが、視界に入ってきたのは泥を払い、一気に詰め寄ったアリアネであった。
「脱出できたぞ」
ボルボロスの顔面に鋼鉄の籠手に覆われた拳が深々と叩きこまれた。
地面に叩きつけられた衝撃で気を失いそうになりながらも、ボルボロスは最後のあがきとばかりに魔法を発動させる。
「また泥か!」
アリアネの足元から小さな泥人形が這い上がっていき、固まっていく。
同時に、アリアネの斜め前にいた骨犬もその体を覆われ、自由が効かなくなっていた。
しかし、ボルボロスにも二人同時に動きを止められるだけの集中力は残っていないらしく、泥の硬度も全く動けないというほどではない。
「覆ってしまえばいつでも殺せる。じわじわとしか覆えないことが逆に恐ろしいだろう。ええ? 命乞いをすれば助けてやるかどうか考えてやる。どうだ?」
アリアネはフッと軽く笑った。
「もっと早く負けを認めていれば、五体満足で帰られたのにな」
「ああ、その通りだ。私とて、負けを認めた相手に追い打ちをするほど、陰険な性格はしていない」
「私が、ではない。お前が、だ」
アリアネはグレートソードを持ち上げ、斬撃を放つ時と同じく体を捻った。
それが何を意味するのか、ボルボロスには分からない。
剣を投げるつもりであったとしても、足元が動かない状態で狙いなど定められないだろう。
地面を跳ね上げて、石つぶてを放つつもりであろうか。
何にせよ、魔法のための集中を切らさない限り、碌な手は打てない。
「何をするつもりかは知らんが、その剣を振るえば命はなくなると思え」
アリアネは忠告を無視し、満身の力を込めて、その剣を振るった。
地面に対して斜めに切り込んだ刃は、えぐるようにして真っ直ぐに進んでいく。
そして、その軌道の先には、泥で固められた骨犬がいた。
グレートソードで跳ね飛ばされた骨犬は、体を構成する骨を散らしながら、真っ直ぐにボルボロスへと向かっていく。
未だ動くことができない彼に避ける方法はなく、魔法で防御するためにも、時間が足りない。
反射的に血の滴る右腕を庇い、左腕に骨犬を食いつかせた。
しかし、魔法を解かないよう、過度に反応はしない。
両腕の治療はアリアネを倒してからだ、と痛みを押し殺して気を張り直す。
次の瞬間、ボルボロスが膝をついていた地面がなくなったかのような感覚がし、バランスを失ったボルボロスは背後から転がった。
上体を起こして何が起きたのか確認すると、自分の太ももから先がなくなっていることに気がついた。
そしてその奥には、血を流して転がる両足と剣を収めるアリアネの姿があった。
「二度同じ手に引っかかる者があるか」
勝負が決したことを感じたのか、腕に噛みついた骨犬も力なく地面へ落ちた。
両足から流れ出る血を止めることが出来ず、このままでは失血死してしまう、とボルボロスは両足に泥を集め、魔法で義足を作った。
朦朧とした意識でも咄嗟にそのような判断が出来るあたり、やはり魔人である。
「魔法は一度に一つしか使えない、だったか? 魔法の理屈など私はよく知らないが、その義足でいる限りこちらに攻撃することもできまい」
「貴様、何が目的だ……」
息も絶え絶えに、ボルボロスは言った。
「すでに言っただろう。マリスに会わせてもらう」
「ハハ、それにはすでに解答している。無理だ。私ではあの人に会わせることは出来ない」
「なぜだ。仲間なのだろう?」
「仲間? ……フン、笑わせるな。仲間ではない。我々は支配を受けているだけだ。これを見ろ。支配の腕輪だ」
ボルボロスは袖をまくって見せた。
手首には連なった文字が輪になったような金色の腕輪がつけられていた。
「我々は生殺与奪の権利を常に握られているのだ。上の者には逆らえない。それが『軍団』の宿命だ」
「なぜこんなものを……」
「分かるだろう。支配するためだ。こんなことは人間でもやらないはずだ。魔の世界に人の倫理はない。この先も関わるつもりなら、覚悟しておけ。命は塵のように軽い……グッ!」
そこまで話したところで、ボルボロスは苦しみだした。
みるみるうちに肌の色が、生命力が腕輪の中へと吸い込まれていき、指先が痩せ細っていく。
アリアネにはどうすることも出来なかった。
軽くなっていく彼が前のめりになったところを抱きかかえ、しばらく顔を伏せていた。
「アリアネ、何が起きたんですか!?」
後ろからムルカが声をかける。
ムルカの位置からでは何も見えなかったのだ。
アリアネが抱えるボルボロスの腕に金色の腕輪がつけられていることに気がつき、目を大きく見開いた。
「ムルカ、これも呪術か?」
「……そうです。支配の呪い。誰かに負けた時に発動するよう、仕込まれていたみたいです」
「口封じ、か」
「そう思います。マリスはこのくらいは平気でやります」
「……マリスは今回のことで君を諦めると思うか?」
ムルカはかぶりを振る。
「むしろ、面白がってもっと強力な追手を差し向けてくるはずです。それか、本人が出てくるか……。どちらにしても、マリスの手下はそう多くありません。命をかけることを強要されますから……」
アリアネはムルカを見て、「君は」と何か言いかけたが、すぐに口を噤んで、話題を変えた。
「この話は後にしよう。トキサメのことが心配だ」
そう言われてムルカも慌てた。
「忘れてました! トキサメ!」
炎の消えた小屋の窓からは、白い煙が漏れ出していた。