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化学室の主と忘却05

「いやいや、嘘。もうすぐ探しに来るのよ。だから助けてもらおうと思って」

 先輩は舌を出して言った。

「もうすぐ探しに来る? 探しに来たじゃなくて?」

 俺が首を捻ると、先輩はその長い人差し指を化学室の扉の方へと向けた。

「そろそろ聞こえるはずだよ」

 すると、すぐに化学室の扉の向こうの廊下で隣の化学準備室の扉をダンダンと叩く音が聞こえた。

「コラッ、ここにいるんだろう!」

 ゴリラの檻に入れればメスが放っとかないと言われている体育教諭の声だった。

 廊下の方を忌々しげに見て先輩が言う。

「やっぱり来たよ、政府の狗風情が!」

「確かに公立の教師ですけど、その言い草!」

「いくら体育しか興味がない脳筋でも、化学室準備室と隣の化学室が中で繋がっていることは知っている。そしてもう少ししたら化学室に入ってくるだろう」

 どこか芝居めいた口調で先輩が言ったあと、某木の肩をつかんで揺さぶった。

「だからやっちゃん、いつもの貸して〜」

 某木はゆっくりと立ち上がり、化学室の奥の壁の大半を覆っている薬品棚から綺麗な赤い液体の入った瓶を取り出して戻ってくる。

「これ」

「ありがと、やっちゃん」

 満面の笑みをした先輩が瓶を受け取った瞬間、ガッと音がした。

 見ると化学室の扉が動いている。しかし立て付けが悪いのでやはり少しの隙間しか開かなかった。

「おい、誰かいるかー?」

 化学室の扉を叩きながら、小さな隙間から先ほどの体育教師の声が入ってきた。

 どうやら本当に隣の部屋に入れなかったから、こちらに来たようだ。

「ヤバい」

 先輩が慌てて、薬瓶を口に持っていき、赤い薬品を口をつけた。

 某木が席を再び立ち、化学室の扉まで行って扉の下辺りを蹴り上げた。扉がスムーズに横にスライドする。

「おい、某木」

 俺は思わず、声を上げた。

 逃げたいと言っている先輩はまだここにいる。それなのに、教師を招き入れるような真似をするのは先輩に対する裏切り行為だ。

 しかし、俺の抑止の言葉も遅く、体育教諭がその大きな体を化学室の中に入れた。教室内を見渡すようにした後、口を開く。

 先輩を見つけて怒号でも飛ぶのではないかと身構えた俺は思わず片目を目をつぶる。

 だが、教師からは思わぬ声が出された。

「ここに占い部のアイツはきているか?」

 某木が首を振る。

 何を言っているんだ、今ここにいるではないか。俺は先ほどまで先輩がいたところを見る。

 ところが、そこには先輩はいなかった。

 代わりに机の上に一匹の黒猫が座っている。

「にゃーん」

 と、黒猫が机の上で一つ鳴いた。

「は?」

 俺は突然消えた先輩と、突然現れた黒猫に頭がついていかず、周りを見渡す。

 どこに? どこから?

「また、その猫は迷い込んできたのか?」

 体育教諭が俺の前の机にいる黒猫に一瞥をくれると、某木を見て言った。

 どうやら体育教師はその黒猫と面識があるようだ。

 某木がそれに答えるように小さく頷く。

「前も言ったが、エサなどはやらないようにな。それとアイツを見かけたら職員室までくるように伝えてくれ」

 某木が小さく頷いたのを見ると体育教諭はその大きな体で化学室の扉をくぐり、廊下へ出て行った。

 俺が目を白黒とさせていると、化学室の扉を閉めた某木が元の位置に戻って座り、黒猫に言った。

「もう、行った」

 某木に答えるように黒猫が鳴く。

「にゃあ」

 すると黒猫が、ぼわんと煙になり、煙が晴れたその中から先輩が現れた。

 机の上の黒猫が先輩に変わったのだ。しかも素っ裸の。

「はあああああああああ!?」

 机の上で、先ほど猫がしていたように手を前につき、机の上で四つん這いになっている。

 しなやかな細い背とローブで隠れていた見た目より控えめな胸が露わになっている。

「いやん」

 俺の驚きなど、無視するように先輩が軽く言って、手で前を隠した。

「す、すみません!」

 慌てて自分の赤くなった顔をそらして目を瞑った。

 なんだ? どうなってる?

 暗闇の中で、机の上から降りたのだろう、先輩の声が机の向こうから聞こえる。

「いや〜助かったよ、やっちゃん。いつも悪いね」

「別に、いい。今度は何したの?」

 某木の声にイヒヒと笑いながら先輩が答える。

「職員室のスケジュールが書いてる黒板、一回全部消して落書きしてきた」

「そう」

 某木はいつものことのように軽く返事をした。

「それはもしかしなくても、先輩が悪いのでは?」

 目を瞑ったまま訊く。

「ま、そうかもねー」

 暗闇の中であっけらかんとして先輩が答えた。

 ため息をつく、俺はもういいかと思い、ゆっくりと目を開けて彼女達の方を向いた。

 先輩が腰に手を当てて笑っている。素っ裸のままで。

「どうして裸のまま普通に会話してんですか! 服着てください!!」

 あわてて再度顔を背けて目を瞑った。

「はいはい。ちぇっ、アンタはアタシのカーチャンかってーの」

「ガキ大将みたいな文句を言わないでくださいよ」

 目は閉じているが、先輩が口を尖らせて言っているのが、手に取るように分かる。

 服を着ているしゅるしゅると布の擦れる音が続いた。

「ほら、これでいい?」

 ったく。目を開ける。

 先輩がイヒヒと笑った。

「なんで某木を脱がしてんですか!?」

「いや、逆にね」

「なんの!? なんの逆!?」

 某木が別段恥ずかしがるわけでもなく、変わらぬ表情で、淡い桃色のキャミソールと下着姿のままで立っている。

 白衣に隠れていたらしい大きめの胸の隆起がキャミソールを引っぱり、その下の白い腹部と細長いへそが見えてしまっていた。

 先輩がニヤニヤと俺を見ている。

 見とれてしまった自分に気がつき、慌てて顔をそらして目を再度硬く閉じた。

「某木はどうして、抵抗しないんだよっ」

「この人、何をしても、無駄」

 某木は諦めたように抑揚なく呟いた。

「悲しっ」

 その反応で今までの苦労が一瞬で知れるというものだ。

 三度目で飽きたのか次には普通に服を来てくれた先輩と某木を前に俺は肩で息をしながら向かい合った。

「声を荒げ過ぎた。喉が痛い」

「ん」

 某木がそんな俺を見て、飲み物を差し出してくる。

「ああ、すまん」

 飲んだ瞬間、異変に気がついて鼻から吹き出す。

「ってこれさっきのメロンソーダもどきじゃねぇか! ベタか、俺は!」

「で、君たちは何をしてたの?」

 服を着て、化学室に入ってきた時のように茶色のローブを身に纏った先輩の問いに某木が俺を指差す。「入部」

「えー、いいなー。占い部もアタシ一人なのにー」

「まだ入るとは決めてない」

 俺は某木を睨んだ。

「キミ、名前は?」

 先輩が言うと、某木も今しがた気がついたように小首を傾げて追従した。

「名前、何?」

「今更かよ。えっ……と、友達たちからはジンコって呼ばれてます」

「ふーん」

 少しわざとらしかっただろうか?

 自分の名前を言いよどんだ俺を先輩が含みのある細い目で見た。

 俺は自分の名前があまり好きではない。なので出来るかぎり名乗らないようにしていた。

「ジンコー? 人工のジンコー?」

 某木が首を捻る。

「人間のひとという字と、おおやけで……まあ、先輩と同じで名前を音読みしてるあだ名だ。しかも小学生のころ、背が一際小さかったんでな」

「あー、ミジンコのジンコってことねー」

 先輩がイヒヒと魔女みたいに俺を指さして笑った。うぜえ。

「で、ジンコ。アタシとやっちゃんの体、どっちが良かった?」

「もう忘れましたよ!」

「嘘だ〜」

「短期記憶の場合、約二十秒しか記憶出来ない」

 助け舟のつもりなのか、某木が言った。

「短期記憶?」

「電話をかける時、かけたらすぐに番号を忘れるような記憶のこと」

「そうそう、そうです。俺は忘れっぽいですし、よく見てもなかったし、どっちがどうだったかなんて答えられないですよ」

 ばっちり見てるし、覚えてもいたが、慌てて某木に続いた。

 俺が思い出す限り、某木の方が扇情的な体つきをしていたなんて、口が裂けても言えまい。

「短期記憶は、繰り返し思い返すことで強化され、長期記憶になる」

「う」

 某木がいらぬ言葉を追加すると、先輩が演劇口調で自分の体をかばうように胸の上で、腕を交差させる。

「ああきっと、ジンコは裸の私の記憶を何度も何度も使って、長期記憶になるのね。想像であんなこといいな、できたらいいな、みたいなことさせるんでしょ!? エロ同人みたいに!」

「さっきまで素っ裸で仁王立ちしてた人間のセリフとは思えんな」

「これはやっちゃんの薬で消してもらわないとね」

 先輩がイヒヒと笑いながら当たり前のように言った。

 一瞬にして、先輩が来る前までの会話を思い出した。

「任意の記憶を消すことが可能って、先輩は信じているんですか?」

 少し驚いて尋ねると、先輩は某木の頭を撫でながら笑った。

「うん、当たり前じゃん。やっちゃんは作るよ」

 ああ、なるほどね。先ほど、某木が「多くの人がそう言う」と言っていた意味がわかった。某木を信じる人間が少なくともここに一人はいるのだ。

 そして、俺もすでに見ている。こいつの作った薬の効果を。

「ん? ジンコはやっちゃんの力を疑ってるの? もう一度猫になってみせようか?」

 先輩が赤い薬瓶を手に取ったが、手の平を向けて制する。

「や、いっす。刺激が強いので」

 あと、その後が果てしなく面倒だ。

 俺は相も変わらず無愛想な顔をして座っている某木に嘆息して言った。

「本当にお前は記憶を消す薬なんて作れるのか?」

 某木は不思議そうな顔をして首を傾げて言う。

「言ったと思う。私、天才」

 俺は小さく嘆息して皮肉気に答えるしかなかった。


「忘れてたよ」

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