化学室の主と忘却02
季節は春。
俺は秒速五センチだとかいうちゃっちなスピードで落ちてゆく桜の花びらを窓の外に見ながら、一枚の紙切れを持って、人がいない廊下を歩いていた。
放課後となった今、校舎の中には、遠くから聞こえてくる運動部の野太い声や吹奏楽の調子の外れた音が響いている。
「ここでいいはずだが」
校舎の端の一室の前で足を止め、今一度手に持っている紙切れに目をやった。
新入生用に配られた部活紹介の紙だ。
様々な部活動が羅列され、羅列の横には新生活に胸をときめかせている新入生に向けて、心象を膨大にする紹介文と活動している場所が記載してある。
どうしてそれを部活動絶対所属が校則の高校二年生の俺が持ち、所属する部活動を探しているのか。
簡単にいうと、羅列の中に俺が所属していた、『古代遊戯文化部』が書かれていないからだ。顧問をしていた担当教諭が教職を辞したため、廃部となっていた。
しかも、同じ部活に所属していた数名の友人たちは薄情にもさっさと別の部活を見つけており、俺はその中に入れなかったという次第だ。
というか、俺が一緒に別の部活に入りに行こうという約束の日を忘れてすっぽかしたのが悪いんだが。
そして、今。
目星をつけた部活を順に回っていき、ついに一番最後の行に書かれている「化学部」の部室である化学室の前までやってきていた。
他の文化部は大会に熱く目標を据えていたり、すでに出来上がった友達同士の集まりで、俺に入る余地はなかった。その点から考えると、活動内容の欄に「化学をします」と他を寄せ付ける気がまったくなく端的に書かれているこの部はまだ光明がありそうだ。
使われていない教室が並んでいる区域なので、周りに人はいない。あまりにも人がいないので少し心配になり、もう一度持っている紙切れの活動している場所の項を確認して、俺は化学室の古い木の扉をノックした。
反応がない。
少し待ってもう一度ノックをしようと手を上げた時、扉についたはめ殺しの厚いすりガラスの向こうにぼんやりと人影が映り、扉が横にスライドした。
が、立て付けが悪いらしく、五センチ程の隙間が開いただけですぐに止まる。
「……あ」
忘れていたような声が短く聞こえると同時に向こうからガンッという音がして扉が横へ滑らかと動いた。どうやらこの扉の立て付けが悪いらしい。扉を蹴り上げることで直るようだ。
目をやっていた足元から、正面に視線を戻す。
赤色が一瞬にして目に飛び込んできた。
赤い髪だ。
頭の後ろで赤い髪で作ったポニーテールがするりと流れた。
額には透明なフレームのゴーグル、顔から下半分の口元には大きめのガスマスクが装着されている。その小さな体躯に纏うには大きすぎる白衣の合間から、黒地のセーラー服と二年生を示す赤いリボンが見えていた。
異様な格好にあっけにとられ声を出せないでいると、小さな体が化学室の中の方へクルリと向きを変えて白衣の背中を見せながら中へ戻って行く。
まあ、入れ、ということだろうか。
薬品臭い化学室の中に入る。
部屋には黒い天板の長方形の大きな机が縦に二列、横に三列並んでおり、それぞれの机の真ん中あたりにはいつ使うかは謎の蛇口が付属していた。
化学室など一年間で二、三度使っただけだった。
赤い髪が入り口から一番近い机に座ったので、俺は机を挟んだ正面の木製の硬い椅子に座ると正面の彼女は口元のガスマスクを外して首にぶら下げ、無表情に口を開いた。
定規のような平坦で小さな声だった。
「どんな薬、欲しいの?」
意味がわからず、首を捻るが、彼女は抑揚なく続けた。
「一時間だけ熱を上げる薬? 腹痛と頭痛を入れ替える薬?」
俺が驚いて目を剥く先の赤い髪の女は無表情に頭を傾けた。
「薬、欲しい、違う?」
「違う」
「そう」
彼女は端的にそう言って言い訳のように続けた。
「私、間違った。時々、そういう生徒が来るから」
「腹痛と頭痛を入れ替えてどうするんだよ?」
「さあ」
「今言ったような危ない薬があるのか?」
「私が作った」
赤い髪の女は若干、誇らしげに顔を小さく上げて鼻を高くした。
入れ替える理由は答えられないくせに自慢には思ってるのか。
「大丈夫なのか、その薬?」
見ると、一番向こう側の机の上には試験管とビーカーが前衛芸術のように接続されている。各ビーカーの中では、緑やら透明な液体やらが沸騰しているように気泡を出していた。
「自己責任」
「それは、大丈夫じゃないかもしれないってことだな」
恐ろしいもんだ。
「薬じゃないなら、なに?」
そのほかに用事があることが、さも怪訝そうにこちらを見る。
「見学希望だ」
「私、珍しい?」
「自意識過剰か」
たしかに赤い髪は珍しいとも思うが。
救いなのは、それが見れたものであるということだ。俺の黒髪がそんな赤色だったら、きっと酷いものだろう。
大体、組が違うので接点は今まで全くなかったが、同じ学年で赤い髪のこいつのことは幾度か見かけている。化学部だとは知らなかったが。
「お前、確か名前は……」
「私の名前、某木」
ああ、そうだった。そんな名前だった。
俺は忘れっぽいからしっかりと覚えてなかったが、二年生で赤い髪のやつ、といえば大半の人間は名前を知っているだろう。
俺は小さく嘆息し、某木の後ろにある机に載っている実験器具に目をやった。ビーカーやアルコールランプ、様々な色の液体の入ったフラスコが前衛芸術のように接続されている。
「某木、ここは化学部の活動場所なんだろう?」
それを聞いた彼女は驚いたように瞳を大きくした。
「化学部の、見学?」
「そうだ」
某木が俺の返事を聞くなり、勢い良くガタっと音をたてて席を立った。そのまま後ろの机に行き、前衛芸術の端にあった緑色の液体の入ったビーカーを両手で持って俺の前に置いた。わざわざストローまで差している。
「これ、メロンソーダ」
泡が沸々と浮き上がってきているものを一瞥し、向かいに座りなおした彼女に訊いてみる。
「その装置と装備で作ったものが、メロンソーダ?」
彼女は俺の目線を受けた頭の上のゴーグルと首元のガスマスクを触る。
「これは、気分」
「形から入るタイプなのか」
「どうぞ、歓迎する」
向かいの化学部員は目の前の緑のビーカーを両手で示した。どうやら部員が増えるのは嬉しいことではあるらしい。
「大歓迎していただいて、感謝だよ。だがまだ入ると決めたわけじゃない。今日は活動日じゃないのか?」
俺は目の前に置かれた得体の知れない緑の液体を入ったビーカーの縁をつまんで、脇に置きながら訊いてみる。化学室の中にいるのは、俺と彼女の二人だけだったからだ。
向かいの某木は首を振った。
「全員来て、活動してる」
化学室の奥に化学準備室と記載されたプレートが付いている扉があった。
「他の部員はあそこにいるのか?」
目で示してから訊くと、再度、赤い髪で作られたポニーテールがふるふると揺れた。
「部長兼部員、私一人、活動中」
「全員とか思わせぶりな台詞を吐くな」
「一人だと、色々、難しい」
某木の後ろの装置を見る。組み合わせるだけでも大変そうだ。
「まあそうだろうな」
好都合ではある。すでにできている仲良しグループに入るよりは容易だ。新一年生に混じって新しく部に入るのもやりづらいしな。
某木が呟くように言った。
「部員、必要、実験台とかに」
「おい待て、実験、じゃなくて実験台か?」
「大丈夫、私、天才」
「信用ゼロだよ! 大丈夫じゃないやつのセリフだよ!」
「まだ、爆発、三度しかしてない」
「したのか? 三度もしたのか?」
「被害、少ない、問題ない」
「少ないってことは、被害はあったんだな?」
「落ち着いて」
目の前の化学部員改めマッドサイエンティストは、脇に置いたメロンソーダを促すように手で示した。
それを無視し、落ち着くために息を小さく吸って訊いた。
「普段、化学部は何をやっているんだ?」
「研究」
「なんのだよ?」
俺の問いに、某木は平坦な声で即答した。
「任意の記憶を忘れるための、研究」