第二話
ブランチの用意を整えたフランソワが再び現れたのは、それから半刻ほどが経過した頃合いだった。ねえ、とフランソワが更に質問を重ねようとしたところで、人類とエルフに共通している生理現象――要するにペルルの腹の虫――が鳴り響いたからだ。何も食べてなかったものね、とフランソワは言い残して立ち去ったけれど、一応年頃の少女なのだ。他人に腹の虫を聞かれて恥じ入る気持ちがない訳ではない。
やはり、気にしても仕方のないことではあったけれど。
「美味しい」
用意されたものはサンドウィッチと新鮮な果物、それから紅茶だった。肉類は入っていない。エルフ族の特徴で、肉類や魚類は身体が受け付けないのだ。サンドウィッチの具はレタスとトマトで、ドレッシングが効いているのかぴりっ、とした味が心地いい。良かった、と答えながらフランソワが紅茶を注ぐ。一つはペルルの分、もう一つは自身の分だった。
「それで、ペルルはどうしてアリアに?」
「アリア?」
「そう、アリア王国」
「アリア王国っていうと、島国の」
「そうよ」
アリア王国はミルドガルド大陸南部に位置する、大陸諸国の中で唯一の島国である。大きな直角三角形のような形状をしており、アリア島の全島を支配している国家である。
「そっか、アリアに来ちゃったんだ」
困ったな、というようにペルルが頭を掻いた。
「やっぱり、この前の嵐で?」
フランソワが声を落とした。うん、とペルルが答える。
「海が見たくてさ。ちょっとだけ寄り道、というか、海路を試してみたくて、シルヴァニアからコンスタンへ向かう予定だったの。最初は順調だったけれど、三日目に大嵐になって」
そう、とフランソワが視線を落とした。嵐の後、ペルルの他に漂着物があったのだ。木材や布切れは恐らく嵐に巻き込まれた船舶の残骸。それに、幾人かの水死体。ペルルと同船していたかは分からないが、嵐に巻き込まれた帆船に乗船していた人たちであることは明白だった。
「あの大嵐を生き残れたのが、奇跡みたいなものだわ。でも、どうしてコンスタンへ?」
先述のシルヴァニアはミルドガルド大陸西方に位置する国家で、コンスタンは東方に位置する国家である。常に順風だったとしても一週間以上はかかる旅程だった。
「エルフのしきたり、ってやつでさ」
「しきたり?」
「そ。エルフは二十歳になると、成人の儀式代わりに大陸各国を旅する習わしなんだ。それで、昨年にエルフの里を出て、ミルドガルドのあちこちを回ったんだ。それも一通り終わったけれど、ずっと陸路だったから、最後に船旅をしてみよう、って思って、船に乗ったらこのざま。最悪だよね」
「大陸を回ったの?」
そこでフランソワが身を乗り出した。
「そうだよ」
「どんな感じ? 私、ほとんどアリアから出たことがなくて」
「そうなの?」
「ええ、お父様がうるさくて。公式の行事でもない限り、アリアからは出してもらえないわ」
「公式の行事って……」
そこであ、とペルルが声を上げた。寝ていたベッドも、室内の調度も、出された食事も、どれも一級品ではなかったか。
「もしかして、貴族様?」
「そんなご大層なものでもないけれど」
苦笑しながら、シャルロイド公爵の者よ、とフランソワが続けた。
「シャルロイド公爵というと、聞いたことがあるね。アリア王家の縁戚だっけ?」
ぱちくり、と瞬いたのはフランソワだった。
「どうしたの?」
「いえ、あんまり驚かないんだな、って思って」
「だって、人間の身分制度でしょ? 色々な国を見てきたけれど、どうも身分制度ってのは理解できないや。同じ人間なのに、変な階級をつけてさ」
「エルフには、そういったものはないの?」
ないよ、とペルルが首を振った。
「そりゃ、村長はいるけどさ。別に威張り散らしている訳じゃないし、何かを決める時は全員で話し合うし、基本的に皆同じエルフ、って思っているよ」
「良い世界ね」
フランソワが言うと、そうでもないよ、とペルルが答えた。
「いつも規則だ伝統だ、ってうるさいし、成人の儀は別として、人間界に出られるなんて滅多にないし、旅の間もフードを被れってやかましいし、ホント嫌になっちゃう。結構人間界も刺激があって楽しいじゃない? 私、もっと遊びたかったな」
「そういうのは私と一緒だね」
「そうなの?」
今度はペルルが尋ねる番だった。
「うん。私のお父様もお仕えしている人たちも伝統だ、嗜みだってうるさくて。ホント嫌になっちゃう」
「じゃ、私と同じだ」
そこで二人でくすくすと笑った。出会ったばかりであるのに、まるで以前からの友人のような和やかさが室内に満ちていく。
「それでも、そろそろエルフの里に戻らないと。あんまり遅いとお祖父ちゃんに怒られちゃう」
「船を使うの?」
「そうするしかないよね。とりあえずコンスタンまで出られれば、なんとかなるから」
「どこにあるの、エルフの里って」
秘密、とペルルが悪戯っぽく笑った。
「これも規則でさ。人に教えちゃいけないことになっているの」
「残念だわ」
「ごめんね。人に教えたら来ちゃうから駄目だって。今は人間との交流も、ほとんど無いしね」
「昔はあったの?」
「そうらしいよ。と言っても、三百年は経つかな。随分と昔だよね」
「どんなところなの、エルフの里って」
そうだなぁ、とペルルが空を仰いだ。紅茶は既に空になっていた。
「緑が溢れていて、せせらぎが綺麗で、動物が多くて、静かなところだよ」
「良いところ、なのね」
「そうでもないよ」
そこでペルルが頭を振った。
「静かすぎて、退屈しちゃう。私はやっぱり、人間界の方が楽しいな」
お稽古の時間、とフランソワが名残惜しそうに部屋を出て行くと、ペルルはさて、と自らの荷物を確かめることにした。背負っていたリュックはきっと波に飲まれて海の底に沈んでしまったのだろうけれど、万が一の必需品は外套に忍び込ませている。人間界には盗人の類が多いから、とは祖父の言葉だったが、こんなところで役に立つとは思ってもいなかった。
「お、ちゃんとあるね」
外套の内ポケットを確認し、ペルルがほっと吐息を漏らした。路銀としては金貨が五枚、それから銀貨が十枚。合わせて六リリル。リリルはミルドガルドの貨幣単位で、一リリルが金貨一枚分、その下の単位はシシルと言い、銀貨一枚分に相当する。十シシルが一リリルであり、上記の持ち合わせの場合、先述のとおり六リリルとなる訳だ。
それから、リーシャ。エルフ族に伝わる秘薬で、大きさは飴玉程度だが、一日分の食料を賄える優れた食品である。それが二十。十分ね、とペルルは考えた。船を雇って、コンスタン王国を徒歩で横断、その間毎日宿泊してもお釣りがくるくらいの金額だ。その後は人里離れた密林の中を歩くことになるけれど、十日程度でエルフの里につくだろう。
「余裕ね」
計算を終えると、ペルルはん、と背を伸ばした。
ずっと寝ていたせいか、身体の節々が痛い。少し、散歩でもしようかな。
ペルルはそう思い、外套を着込むと小部屋の扉に手を掛けた。