羽黒忍者
羽黒流忍者とは、出羽三山のひとつ、羽黒山の山伏の一部を、出羽国の山形藩主・最上家が忍びとして召し抱えたことが隠密組織である。
伊賀、甲賀などは山伏兵法から発展した忍者であるが、山伏を直接忍びにした流派も数多い。
それとは別に、独眼竜伊達政宗の伯父に当たる最上義光は、伊賀者十三名を雇っていたという。それは最上義光が二男・義親を徳川秀忠の家臣として仕えさせ、徳川家康と義光が同盟関係にあったからといわれる。
しかし、最上家はのちに改易されて、交代寄合という旗本になった。
羽黒山は湯殿山、月山とならぶ修験道などの山岳信仰の聖地で、三つの山を総じて『出羽三山』という。
出羽三山は、推古元(593)年、第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が山をひらき、祖霊・精霊や山の神・田の神・海の神の宿る聖地・霊場となった。
平安時代初期に「神仏習合」の影響を受けて仏教の色合いが濃くなる。さらに「羽黒派古修験道」を修行する羽黒山伏が盛んになった。
明治時代の「神仏分離」を経て、羽黒山は「出羽神社」となった。神山となった羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は大山衹命・大国主命・少名彦命の三神を祀っている。
現在、出羽三山神社は「神道」が中心であるが、神仏習合時代の色合いが今も濃く残っている。
それが昭和41年に国宝に指定された「羽黒山五重塔」がある。山道の途中の巨杉のなかにそびえる。あの平将門が創建されたともいうが、定かではない。
明治の神仏習合で、羽黒山のおおくの寺院僧坊は破壊されたのだが、五重塔は壊されずに残った。いまは大国主命を祀っている「千憑社」となった。
出羽三山といえば、即身仏が有名である。
即身仏は現在、日本の各地に17体(24体という説もある)が祀られているが、そのうち10体が出羽三山のある山形県に安置されている。特に湯殿山の仙人沢で多数の行者が修行したようだ。
それも出羽山山の厳しい修行にたえた僧侶なればこそ、成し得たことかもしれない。なかには即身仏になることに失敗して途中で亡くなった者も少なくない……
さて、「黒脛巾組」でも紹介した大林坊俊海は、伊達家に仕えた黒脛巾組忍者であるが、もともとは奥羽の武将・北畠顕信に仕えた武士であったという。
彼は羽黒山で修験者の修行をした。このとき、羽黒忍術を学んだかどうかは定かではない。が、山伏の技術は忍者のわざとして流用できる。
彼をもって羽黒忍者とするかどうかは、灰色の困った命題だ。




