伊達政宗の忍者〈黒脛巾組〉
「黒脛巾組」とは、伊達政宗が創設した直属の隠密組織といわれている。「黒脛巾」とは、黒い皮の脛当て・皮脚絆のことで、それを装着して、組の印としたのが由来とされる。
「伊達秘鑑」によれば、「政宗公かねて考えあって、信夫郡鳥屋城主・安部対馬守重定に命じて、偸になれたる者五十人を選び、扶持を与え、これを黒脛巾組と号す。柳原戸兵衛、世瀬蔵人という者を首長として、安部対馬を差し引き」とある。
「首長」とは、「かしら、おさ」の意味である。「偸」とは「盗む」「盗人」とことで、柳原・世瀬はそのままだと、盗賊の頭目という意味になる。が、前にも述べたが、忍術のことを「偸盗術」ともいうことから、忍術を心得た者の意味ともとれる。
また同書には、「所々方々(しょしょほうぼう)へ分置き、あるいは商人・山伏・行者などに身をまぎれて、連々入魂の者も出来れば、その便宜をもって密事をも聞き出し、その時々これを密通す。政宗ははやくこの事を聞こえども、外に知る人なし」とある。
つまり、伊達政宗は黒脛巾組に商人・山伏・行者などに変装させて、諸国各地へ赴かせ、情報を得ていたようだ。
「老人伝聞記」にも黒脛巾組のことが書かれている。政宗は力量・打ち物(武術)にすぐれた者を選び、黒脛巾組をつくった。百姓出身であっても「組抜」(足軽同様の下級武士)の扱いとなった。構成は五十人、三十人を一組として、案内、悪党の忍び入りたる者の探索、兵糧・廻米・御陣具・竹木の運搬をさせた。それぞれの土地の古人の武辺の者を組頭とした。
この「黒脛巾組」の組頭をまとめる者は、安部対馬のほかに、清水澤杢兵衛、逸物惣右衛門、佐々木左近、横山隼人、気仙沼左近の六名が首長として紹介されている。つまり、黒脛巾組は大きな組織に発展したことがうかがえる。
彼ら伊達忍者としての活躍は「会津蘆名記」の下巻に紹介されている。
天正十五(1587)年三月、佐竹義広が会津黒川城に入城し、蘆名盛隆の養女と結婚して、蘆名義広と名乗る。この佐竹義広とは、常陸国の戦国大名・佐竹義重の次男であり、彼は蘆名家の当主となった。つまり、佐竹と蘆名の連合ができあがった。南下をめざす伊達政宗にとって、大きな障壁となった。
あせった伊達政宗は、黒脛巾組の太宰金助という侍を蘆名領内に忍び込ませた。ちなみにこの太宰金助だが、「伊達秘鑑」に黒脛巾組として名を連ねる太宰金七と同じ人物だと考えられている。
この頃、蘆名家内部では佐竹義広が新城主となったことについて、家臣たちが二派にわかれて反目していた。ひとつは義広を歓迎する派、もうひとつは伊達政宗の弟・小次郎を蘆名家に呼ぼうという派だ。
結果は義広派が勝利したわけだが、次期当主が決まってからも、この内部確執は焼けぼっくいのように、火種となる可能性があった。
その複雑な情勢を太宰金助(金七)は調べ上げ、政宗に報告している。黒川ノ内大町柳ノ下に風呂屋があり、太宰金助はそこに住み込み、日々、蘆名家の侍の双方の論争を書きつけていた。
風呂屋に出入りする客たちから何気なく話し込み、情報を得ていたようだ。
のちに摺上原の合戦のおり、蘆名家の武将・猪苗代盛国が伊達に寝返る。それは、太宰金助のもたらした情報によるものかもしれない。
太宰金七の名は新井白石の「藩翰譜」にも名が見られる。伊達政宗の小田原出陣のとき、豊臣軍の情勢をしらべるために小田原に派遣されたとある。伊達政宗が小田原参陣におくれたのは、太宰金七の得た情報を待っていたからかもしれない。
1586年の人取橋の合戦の記録にも黒脛巾組の名はある。伊達政宗の急激な躍進に、周辺諸国の大名は危機を感じて反伊達連合軍を結成した。
連合軍は佐竹義重を中核に、蘆名盛重・石川昭光・白河義親・二階堂盛行・岩城常隆の武将で構成し、総勢三万の軍団。対して伊達政宗はその四分の一ほどの七千余の軍団。まともに戦っては、勝敗は目に見えている。
そこで政宗は黒脛巾組を反伊達連合軍の陣中に忍び込ませる。連合軍はけっして一枚岩とはいえない。彼らとて所領などをめぐって普段は争いし、複雑なパワーバランスがあるのだ。その間隙を突けば巨大な一枚岩とて崩壊するはず。
「伊達秘鑑」をかいつまんで述べると、伊達家は佐竹ら連合軍と戦うが、兵力差はいかんともしがたく、鬼庭良直らの将兵を失う。伊達家惨敗を予想し、政宗も家臣・片倉景綱を替玉にしりぞく。伊達家終焉の可能性があった。
が、翌18日、勝利間近の連合軍はなぜかすべて撤退してしまった。
のちに聞くところには、連合軍の石川昭光は政宗の叔父で、白河義親も縁戚であり、実は伊達家と内通していた。彼らは強大な実力を持つ佐竹・蘆名らが政宗討伐を呼びかけたため、やむなく参加したのだ。連合軍三万といえども、結束力は低かった。
政宗は信夫鳥屋の城主。安部対馬守にひそかに謀略をさずけ、黒脛巾組組頭の柳原戸兵衛・世瀬蔵人らの配下たちに、諸将の内通・裏切りなど、さまざまな流言飛語をながさせ、反間策をおこなった。連合軍内部の将兵に混乱がおき、疑いをもった諸将は、己が身の危険を感じて撤退したのだった。
ほかにも、「伊達秘鑑」には大林坊俊海という山伏忍者も紹介している。
大林坊俊海は元武士で、出羽三山の羽黒山で修験者の修行をし、伊達政宗に「黒脛巾組」の忍者としてつかえた。「人取橋の戦い」で流言を飛ばし、「擦上原の合戦」では、気象の変化の情報を政宗につたえた。
また、「仙台封内記」には伊達政宗につかえた虚無僧の芭蕉という忍者が紹介されている。四辻の地を与えられている。もちろん、のちに生まれた松尾芭蕉とは別人である。
最近のニュースでこんな話があった。2017年11月、黒脛巾組の神社が更地にされた事件だ。そもそも、伊達家の忍者が神になっていたのが驚きであるが、まずは詳細をのべよう。
黒脛巾組に鹿又戸兵衛という忍者いて、「大坂の陣」で活躍。伊達家二代藩主忠宗のとき、鈎取東原に知行地をさずかった。
昭和37年、戸兵衛の子孫にあたる元仙台市長・鹿又武三郎氏は太白区西多賀に戸兵衛大明神の社を建立。
しかし、現仙台市が地元住民にまったく告知なく、東原神社を更地にしてしまったのである。人工増加のめの宅地造成ではあるが、貴重な建造物の喪失はかなしい。
ちなみに黒脛巾組は現在、宮城県仙台市の芸能ユニットや観光キャラクターのモチーフにもなっている。




