薩摩島津家の忍者〈兵道家・鞍馬揚心流〉
山くぐりの他にも薩摩には忍者が存在した。「兵道」と「鞍馬揚心流」である。
「兵道」は伊集院修験の系統であり呪術をおこなう。島津家の兵法のうちである。この山伏を「兵道家」、「兵道者」ともいう。
これは島津家が九州鹿児島に土着する前からある宗教である。山岳仏教と古来よりある宗教呪術が融合した独自の宗教で信仰を集めていた。島津家はそれをまとめる役をつとめた。
吉慶を招来し、また憎い相手を呪詛調伏できると信じられていた。
この兵道家もまた、半武士半山伏であり、薩摩島津家の藩士であった。
兵道家がかかわった事件で有名なのが、「お由羅騒動」または「高崎崩れ」といわれるお家騒動です。
島津斉興の側室・由羅が自分の子である久光を次の藩主にしたいがため、久光の異腹の兄である斉彬を呪詛しようとした事件である。
お由羅は兵道家数人をひそかに集めて呪殺の修法をさせたという。この兵道家のなかに、お由羅つきの広敷番頭であった牧仲太郎がいたのではないかと思われている。
なぜなら、嘉永元(1858)年、斉彬の次男・寛之助が亡くなり、その床下から呪詛のための人形がみつかり、その筆跡が牧仲太郎ではないかという疑惑が生じたからだ。ここまでは只の噂であったが、斉彬派の者は恨みを抱く。
はじめ呪殺に懐疑的であった斉彬も、自派の兵道家である高木市助と村野伝之丞、他三名の兵道家に、斉彬と家族にかけられた妖気を払わせ、逆にお由羅調伏をおこなわせた。お由羅のいる玉里御殿の床下に呪い人形をおき、祈祷する。
が、由羅派兵道家の呪力がまさったのか、翌年、斉彬の四男・篤之助が亡くなり、斉彬派の怒りはふくれあがった。牧仲太郎の暗殺計画がもちあがったという。
現代人の我々から見れば、当時の医療は未熟で子供の早世が多かった事を知っているが、中世の当時はまだ呪殺呪詛は信じられていたのだ。いや、当時はまだ本当に、呪殺が実在していたのか……
このお家騒動を主題に直木三十五氏が「南国太平記」という小説を書いている。この作品では斉彬派と由羅派の兵道家たちの身の毛もよだつ霊力バトルが描かれています。
鞍馬揚心流(塩田揚心流)は柔術中心の上甑島(現在の鹿児島県薩摩川内市)に伝承される武術である。その内容は、柔術・棒術・居合術・剣術・捕縛術などがあり、昔は忍術的な呪術もあったらしい。
「武芸流派大事典」によれば、初代・塩田甚太夫が安永9(1780)年に揚心流と鈴木流を融合してあみだした武術である。しかし、系譜では揚心流開祖の秋山四朗兵衛を初代としているそうだ。
塩田甚太夫は揚心流の発祥の地である「鞍馬」を、自分がつくりあげた揚心流武術の名前につけたと思われる。あの源義経が鬼一法眼にならった鞍馬流・京八流が源流である。
塩田甚太夫は薩摩島津の隠し目付として幕府の隠密を捕えたり、密輸組織を捕えたりしていたようだが、詳細は不明。
三代目・塩田甚太夫は甑島にきた悪代官を懲らしめた罪で奄美大島へ島流しにされた。同時期に西郷隆盛も島流しにあい、二人は交流をふかめた。
地元郷土史には西郷が島民に学問と相撲を教え、塩田が武道を教えたとある。塩田は西郷隆盛暗殺計画を事前にふせいだという伝説もあるようだ。
戦後、鹿児島県警察の逮捕術に鞍馬揚心流のわざの一部が受けつがれた。
ちなみにつけ加えると、塩田甚太夫は鞍馬流剣術を中田彦左衛門から習った。その鞍馬流剣術のわざの一つ「変化」が、明治10年に明治警視庁で形成された「警視流」武術に取り入れられている。




