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忍者・忍術の研究ノート  作者: 辻風一
忍者の流派
24/28

薩摩島津家の忍者〈山くぐり衆〉

 薩摩島津家では忍者のことを「山くぐり」と呼んでいた。おもに山伏(修験者・行者ともいう)が多いのが特徴である。

 島津家にかぎらず多くの藩ではお抱えの山伏がいました。お抱え医師や僧侶といった感覚でしょうか。俸給をもらい、領内の山伏を取りまとめるのが仕事で、陣中において戦勝祈願や呪いなどもしました。

 ですが、薩摩島津藩は他藩よりも山伏を重用していました。この山伏はふだん藩士として仕事をしているのだが、時に山伏として安産、男子誕生、参勤交代の無事、病気平癒または呪詛をも加持祈祷していたようである。

 戦国時代の島津では、政治・軍事の策をたてるのにクジをひいた。これは神仏の霊験をえて最適の判断をするためのもの。


 薩摩忍者のはじまりは島津忠良しまづただよし(1492~1568)にあるようです。


 島津忠良は、薩摩国(鹿児島県)の武将であり、薩摩島津家の中興の祖である。出家して日新斎じっしんさいと名乗った。

 伊作・相州の領地をあわせて薩摩中部に勢力をのばす。また、紀州根来寺と密接な関係をもち、琉球貿易にもかかわり、経済力でも見るものがあった。また、自作の「いろは歌」はのちに薩摩鹿児島藩士の教訓書となった。

 この人物が薩摩忍者組織をつくった人物とされている。


 島津日新斎忠良が山伏を重用していた話としてこんな話がある。1538年、忠良は加世田別府城を攻めたとき、彼は神社にこもって戦勝祈願をしていた。さらに宇留島東福坊重綱という山伏に「三洛の秘法」という加持祈祷をおこなわせた。

 それもあってか、島津忠良軍は勝利。加世田・大浦を領することになる。東福坊は祈祷の功績により、久志地権現・磯間権現の別当職に任じられる。


 また、島津忠良は金峰山きんぼうざん蔵王権現(熊本県)の神官や山伏に、体術・武術・霊術などを修行させて「山くぐり衆」を育成した。またの名を「薩摩忍衆さつましのびしゅう」ともいう。

「七方出」の章でものべたが、山伏や僧は関所の通過が自由に往来できる権限があり、あやしまれず他国をしらべるのに便利であった。

 これらの山くぐり衆十名を集め「社中」を形成した。その後薩摩には、開聞社中・霧島社中・新田社中・紫尾社中・冠社中ができた。

 忠良は彼薩摩忍者「山くぐり衆」をつかって、敵状を的確に把握し、合戦に勝利し、薩摩の版図はんとをひろげていった。


 また、島津日新斎の家臣に井尻宗憲いじりむねのりという者がいた。金峯山修験道の山伏となり、神力坊じんりきぼうと号した。彼は日新斎の命令で全国66ヶ所を巡り、国家鎮護の祈祷と納経をおこなった人物として知られる。この井尻神力坊が薩摩島津家の忍者〈山くぐり〉の頭領であったといわれている。


 話が脱線するが、山くぐりを調べるうちに、鹿児島テレビでご当地ヒーローの「薩摩剣士隼人」という番組を知った。ニチアサの東映特撮ヒーローのようなものらしい。

 そのなかで敵対する勢力に「幻魔忍者くぐり衆」というキャラがある。幻魔神狐ヤッセンボーの部下で、狐の面をかぶった複数の精鋭忍者集団であるそうだ。ヒーロー番組の戦闘員的な役割のようだ。

 ちなみに幻魔神狐ヤッセンボーは吉野狐の妖術と金峰山の薩摩忍者「くぐり衆」の忍術を会得したキャラクターであると記述がある。

 薩摩忍びの「山くぐり」が現代の鹿児島でキャラクターショーになっているとは驚きましたなあ……

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