忍者・忍術の起源
なにごとにおいても終わりがあれば、始まりがある。
さて、忍者とはそもそもどこから生まれたものなのであろうか?
江戸時代に書かれた忍術伝書によれば、なんと、はるか昔――紀元前の古代インドや中国よりはじまるという。
1、インドバラモン説
古代インド文明がはじまったのは紀元前4000年頃。インドの社会階級四種の貴族階級バラモン(婆羅門)がつかった魔術・幻術がそもそも起源らしい。
そ れが紀元前550年頃、中国に伝わり、老子の道教と混じりあい、道術、仙術がうまれた。これらは中国の小説「西遊記」、「封神演義」などで御存じのかたもあるだろう。
この仙術は600年頃、遣隋使、遣唐使を通じて仏教とともに伝わったという。なにせ当時の日本の庶民はほとんど竪穴式住居にすんでいた時代である。聖徳太子らがずっと進んだ中国の文明を学び、制度や技術はもとよりあらゆることを一切合財輸入したのだから、仙術だって学んだに違いない!
この仙術を修行すれば、空を飛ぶ術、水火に入る術、千里眼、穏形の術、夜視術、分身術ができたという。空を飛ぶのはともかく、夜視術、穏形術、分身術など実に忍者的な術である。
さらに東洋の武術はインド紀元説があり、いちがいに無関係とはいえない。
2、古代中国説
「忍秘伝」によれば、「漢高皇帝ノ時」とある。また、「万川集海」によれば、「義帝ヨリ始マリ軒轅黄帝、推シ弘メタマウ」とある。
これが奇門遁甲であり、詳細は5へ続く。
上杉謙信がつかった忍び集団が「軒轅」と名づけられたのは、この故事によるらしい。
3、徐福説
中国の秦の始皇帝が不老不死の仙薬を得るために、仙人の住む蓬莱山を徐福という文化人にさがさせた。徐福は孝霊天皇の時代に熊野新宮あたりに渡来した。
徐福は日本人に医療、織物、捕鯨、紙のすき方を教えたというが、この中に忍術も含まれていたという。
「伊乱記」によれば、徐福の連れてきた二人の女性・御色多由也と御弓路太夫に教わった仙術が伊賀忍術のはじめてと書かれている。
まあ、徐福自体が伝説の人物なので、この説はかなりあやしい……
4、中国の七書説
七書とは「孫子」、「呉子」、「司馬法」、「尉繚子」、「李衛公問対」、「黄石公三略」、「太公望六韜」のことだ。
これらはつまり軍事マニュアルであり、源義経、武田信玄、上杉謙信、竹中半兵衛、黒田官兵衛など名のある武将が好んでまなんだ兵書である。軍略、用兵術、用間術などで、とうぜん斥候や軍事スパイの必要性も説いている。
有名な孫子の兵法でも「間に五間あり、郷間、内間、反間、死間、生間。反間ほど利のあるものはない」と書かれている。“間”とはこの場合、忍者の先祖のことである。
日本でも忍者を間、間者と呼んだ時期がある。明治から昭和にかけてスパイを間諜と呼んだのもこれによるものらしい。
七書は公式には遣隋使の吉備真備が持ち帰ったとあるが、小野妹子説、中国からの帰化人の誰かという説もある。
5、中国・朝鮮から遁甲説
兵書の「七書」ではなく、天文遁甲の術が中国から朝鮮を経て伝わったとする説。
2、の古代中国説の続きである。
遁甲術を習った渡来人が甲賀に住み、甲賀忍術が始まったとする説。
聖徳太子の側近に大伴細人という“志能備”がいて、日本の忍者第一号とする説がある。この大伴細人が朝鮮の渡来人らしいという説。
ちなみに“志能備”とは、「能き便りを志す」という意味だ。“しのび”という名称自体が、これが語源ともいう。
さてはて、遁甲の術とはなんであろうか?
遁甲とは占術であり、古代中国の黄帝が怪物・蚩尤と争っていた時代、天帝から授かったものだという。
「奇問遁甲」といい、三国志の諸葛亮孔明もつかったという。
まあ、このあたりは神話と伝奇小説の話である……
六朝時代に三韓(朝鮮)に伝来し、推古天皇の時代に日本に伝わった。日本書紀によると、百済の僧侶・観勒が遁甲の書を献上したとある。
当 時の占術は最新科学に基づく天文気象の学問であり戦国時代の軍配者と呼ばれた呪術をふくむ軍師も、日本の風土にあわせて奇問遁甲をつかった。
また、遁甲術には隠れ身の術、深草兎歩の術などは遁甲の影響であるという。
6、古代日本説
神武天皇が御東征のとき、大和国忍坂村で、天皇配下の道臣命が、諷歌倒語の術で賊を倒したとことから、道臣命が本邦忍者の始祖とする説。
また、役行者小角の山伏兵法が伊賀流甲賀流の起源とする説がある。
聖徳太子が“志能備”をつかって情報を得たとは前に述べた。
他にも、忍者の古流に源義経がつかった義経流、楠木正成がつかった楠木流がある。
だが、しかし……である。
歴家や忍術研究者によると、これらの説は忍術伝書の由緒云々を重々するため、箔をつけるためのもので、あやしげなものらしい……しかし、武術や兵法や遁甲術など、まったく無関係ともいえない。現実的な説は次の説だ。
7、自然発生説
戦争があれば、戦場を監察する斥候、敵国をあらかじめ調べる間諜が必要とされるのは世界的にも同じことであり、自然発生的にうまれたスパイ術が発展したとする説である。
伊賀甲賀の地は痩せた土地であり、他国に出稼ぎのため傭兵として活躍したことが始まりとし、それが専門職となって、山伏兵法や海外から伝わった七書、遁甲術、武術を取り入れ精巧に体系づけられたのではないだろうか?
日本の他の武将たちは、斥候の必要性から、地元の修験者、盗賊、下級武士などを忍者にしたてたようだ。
いろいろな説を消化したが、趣味で忍者物を読まれる方には、いろいろ調べてみて、歴史の勉強をすることをオススメいたします。
時代背景がわかると、想像がさらに膨らみ面白さが増しますよ。