武田信玄の忍者 〈歩き巫女と望月千代女〉
戦国大名は大なり小なり忍び組を持っていたが、武田信玄・徳川家康・毛利元就は複数の忍び組を持っていた。
その中でも武田信玄は珍しい女性の忍び集団を組織していた。つまりリアルくノ一忍者である。今回はその話をしよう。
信州小県郡の禰津村古御館にくノ一養成機関はあった。その名は「甲斐信濃巫女修練道場」という。
昔の農家風の小さな家が小路ぞいに何軒も集まっていた。『日本巫女史』(中山太郎著)によると、この道は『ののう小路』と称し、巫女の家々を『ののう屋敷』と呼ばれたという。
“ののう”というのは、この地帯の巫女の呼び名だ。人を呼ぶとき「のう、のう」と言い、神仏を「のんのさま」と呼んでいたのが由来だ。
“ののう”の外にも『歩き巫女』もしくは『渡り巫女』といった。
戦乱つづきの時代である。戦災孤児、捨て子、迷い子などが少なくなった。その中から特に美しい女の子を時には買い取り、拾い上げ、誘拐して集めた。その数は二百名から三百名にものぼり、女の子達に巫女の修行をつけた。さらに彼女らの特質や特技によってくノ一の技を仕込んだ。
現在の巫女といえば神社に勤務し、祭祀のときに舞い、巫女神楽を奉納する本職巫女と正月などにアルバイトで参加する助勤巫女がいるが、いずれも品格の高い神職のイメージがあるであろう。
しかし、「甲斐信濃巫女修練道場」で養成される女忍者はかなり違うものだ。歩き巫女の姿は白衣の巫女装束に外法箱を紺色の風呂敷につつんで背負い、白木の梓弓をもち旅をした。ちなみに神職ゆえ肉食は禁じられている。
彼女達は祭りなどの市を求めて全国を流れ歩き、祓いや禊をおこなった。また、病気の治療、易占や予言、調伏、呪術・祈祷、などをして生計をたてた。ほかに旅芸人をする歩き巫女もいた。
また、女忍者ではない普通の歩き巫女たちは他にも地方によって、口寄せ、市子、県語り、笹帚とも呼ばれた。
弓弦の弾音などで神がかり状態となり生霊や死霊をよびだす口寄せの巫女は梓巫女という。
歩き巫女なかには春をひさぐ遊女もいたという。そちらは遊女の別名である白湯文字、旅女郎とも呼ばれた。
さて、美少女の歩き巫女集団がまさか、信玄の忍者であるとは想像しにくかったであろう。それに忍者や間者といえば男のイメージがある、裏をかいた策でもあったと思う。
村に歩き巫女がくると村中に知らせが広がり、近在の女たちが集まった。それぞれの悩みを打ち明けて、ののう巫女に口寄せをしてもらった。
戦乱の時代ゆえ村の男たちは戦場にでかけ、中には生死の行方もわからない者もいた。村もいつ戦場になるかわかならい不安の日々を占いで払拭するのだ。
口寄せが終わると、女達はおしゃべりをしてストレス発散をする。そんなくつろいだ空気の中から、領主に口留めされていたことや。思いがけぬ情報を得ることもあったであろう。
また、現代でも女性スパイがハニートラップで男から機密情報を得る話がある。美しい少女巫女に鼻の下をのばして口をすべらす男もあったのではないか?
彼女たちが集めた情報はツナギの者が回収して信玄に送った。しかもツナギの者は裏切り防止のため監視の役目もあったという。
本来の歩き巫女は二、三人で連れだって旅をするが、信玄の諜者である彼女達は一人で旅をしたという。これは連鎖的に仲間が捕縛されないようとする用心であった。仮に捕えられても白状しない訓練を受けていた。
そんなくノ一歩き巫女の頭領で上忍であったのは、巫女頭の望月千代女という。
彼女の夫は望月盛時といって、武田信玄の甥である。信州北佐久郡の望月城主であったが、永禄四年九月の川中島合戦で討ち死にした……
若い身空で未亡人となった千代女は、信玄に「甲斐信濃巫女修練道場」の巫女頭に命じられてくノ一歩き巫女の養成をした。
望月家は甲賀の上忍の血筋であり、千代女は甲賀忍術を心得ていたのだ。つまり信玄の歩き巫女忍者は甲賀流忍者でもあったのである。




