武田信玄の忍者 〈透波・三ツ者・御師〉
戦国大名でもっとも忍者をつかったのは、徳川家康、毛利元就、そして武田信玄の三人だと言われている。
近隣諸国に侵攻して領土を獲得するためには強力な武力集団が必要であるが、力押しだけでは疲弊してしまって倒れてしまう。
そこで情報収集を専門にあつかう諜報機関をつくる必要があった。隣国の情報を調べれば合戦は有利になるし、なるべく兵をつかわずに他国を調略し、敵方の武将を寝返らせる工作に重宝する。
甲斐国では忍者を透波と呼び、甲州透波などとも呼ばれている。武田信玄はまだ二十代前半という若い時分に忍びの者の組織を体系づけた。
透波は合戦において“伏せかまり”、“くさかまり”、“かぎもの聞”などの斥候や敵兵の攪乱などにつかわれた。軍隊における斥候などに近い。彼等は甲賀者、あるいは信濃の忍者を雇ったらしい。
『甲陽軍鑑』によると、武田家では七十人の透波を召し抱えていたが、そのなかでも優秀な者三十人を選抜し、板垣信方、飯富虎昌、甘利虎泰に各十人ずつ配属させた。三将はこの透波をつかって中信濃の小笠原氏、南信濃の諏訪氏、北信濃の村上氏の調略をさせた。
透波たちは二人組にして敵地を探り、決められた日時に国境に出張ったツナギの武士に調べた情報を伝えてから潜入地にもどった。敵情は早馬で甲斐国府中の信玄館に報告された。
早馬を最大限にいかすためにまっすぐな道『棒道』がつくられ、狼煙による伝達のネットワークもあったという。
しかし、この透波集団も天文17(1547)年の村上義清との戦いで板垣信方と甘利虎泰が相次いで討ち死にしたために再編成されることとなる。
武田信玄のつくった新体制の諜報組織の集団は『三ツ者』と呼ばれた。この名前の由来は、間見、見方、目付の三職分をあつかったためだ。構成員は出家、町人、百姓などの中から諜報の才覚のある者を探しだしてスカウトした。その人数は二百人という大組織である。
三ツ者の任務は他国へ潜入し、潜入地の軍事力、城砦・町割り、城主の内情や家臣の関係、武将たちの能力から噂話まで調べ上げて信玄に報告した。また敵地で扇動工作や寝返りしそうな武将を探した。
彼等は僧侶、修験者、商人、博労、医者などに変装し、諸国を自在に渡った。透波が軍隊の斥候なら、三ツ者は秘密情報員といったところか。
三ツ者をまとめあげて采配したのは諸国御使者衆である。『甲陽軍鑑』によると、日向源藤斎、秋山十郎兵衛、西山十右衛門、雨宮存鉄などの名がある。
日向は関東・越前・比叡山、秋山は尾張・美濃、雨宮は近江・四国の諜報工作を担当してした。
また、三ツ者とは別の諜報機関もあった。甲斐といえば富士山があり、浅間神社には富士御師がいる。彼等は参詣者を寺社に案内し、参拝・宿泊の世話をする者たちのことだが、御師は諸国を自由に行き来できることから、信玄はその中に“すっぱ侍”を置いた。
『吉田御師由緒覚書帳』によると、吉田の御師のなかに二十人の“すっぱ侍”がいたという。また甲斐御岳金桜神社の御岳御師のなかにも“すっぱ侍”がいた。
なお、これらは「流し」の諜報員である。『曲淵崇立斎言上書』によると、信玄はさらに一国に一人は諜報員を駐在させていたという。のちの江戸幕府の“草”の者のようだ。深謀遠慮ぶりがうかがえる。
信玄がかように諜報術にすぐれていただけに、自国へ潜入する忍者の警戒も怠りがなかった。
甲斐の領民に勝手に他国へ便りを出す事を禁じ、家臣団には僧侶・山伏を家来にすることを禁じた。彼等の中には他国の忍者が含まれる可能性があることは自明の理だ。
さらに国境付近に住む武士団の九一色衆、津金衆、武川衆、御岳衆に甲斐へ出入りする者を警戒するように命令し、忍者狩りをおこなったようだ。
また、それらはすべて男の諜報員の話であったが、女の諜報員もいた。“歩き巫女”をスパイに養成してつかっていた。これは毛利、徳川にもいない独特な組織である。
信濃禰津の望月千代女を巫女頭として配していた。つまり上忍である。歩き巫女と望月千代女については、次項にて詳細を語ろうと思う。
かように武田信玄は幾多の忍者をつかいこなし、関東、北陸にくわえ、紀州、西国の情報をまるで見てきたように知っていたので、近隣諸国の武将・大名たちから”足なが坊主”の異名でおそれられていた。




