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忍者・忍術の研究ノート  作者: 辻風一
忍者の流派
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真田忍者

 真田の忍者といって、まず思い浮かぶのが、真田十勇士の甲賀流忍者・猿飛佐助と伊賀流忍者・霧隠才蔵であろう。

 しかし、これらは明治末から大正にかけて『立川文庫』の講談本で当時の少年や商店員の読者をハラハラワクワクさせた虚構の存在。


 ではあるが、智将として知られる真田三代の幸隆・昌幸・幸村には実在した忍者集団が家臣としてつかえ、彼らの鮮やかな策謀を手助けしていました。それが立川文庫の忍者たちの活躍の元になったのでは?

 今回はそんな真田忍者を紹介します。


 信州には古い時代から山岳信仰の修験道が盛んな国で、山伏の修行法から忍術が発展したという戸隠山の修験道から戸隠流忍術が発祥し、北信濃の飯縄山は“飯綱使い”が生まれた。吾妻と伊那谷には忍者の里があったという。

 また、角間渓谷の岩窟には山伏の修行場があり、講談の猿飛佐助はここで忍術修行をしたという。


 初代・真田幸隆は武田信玄の信濃先方衆として、天文20年に村上義清の戸石城を乗っ取った。このとき信玄の兵をひとりもつかわず、調略をつかったのだが、これに真田忍者が戸石城の武将に裏切りをすすめたという。


 この幸隆のつかった真田忍者の頭目が出浦いでうら対馬守つしまのかみ盛清もりきよ来福寺らいふくじ左京といった。


 二代・真田昌幸は少年時代に武田信玄に近侍し、武田家滅亡後には織田・北条・上杉・徳川と天下の情勢をみて主君を変えました。天下人となった豊臣秀吉に従いますが、彼でさえ昌幸をさして「表裏比興の者」つまりは油断のならない武将であると評しました。 


 数で上回る徳川軍にゲリラ戦で二度も勝利しています。これにも真田忍者は活躍したようです。数で下回る真田軍は忍者をつかった軍略策謀やゲリラ戦で対抗するしかなかったのでしょう。


 昌幸の息子・真田幸村はそれまで格別に注目された存在ではなかったのですが、慶長19(1612)年、大坂城の豊臣秀頼と江戸の徳川幕府が決裂して運命が変わります。


 幸村は大坂の冬の陣で大坂城前に“真田丸”を築いて徳川軍と奮闘、夏の陣では六人の影武者をつかって東軍を惑わし、家康の本陣を突き崩して、あと一歩まで肉薄しました。その陰には幸村に従った真田忍者がいました。

 この活躍が後世、『立川文庫』の真田幸村と十勇士の話になったと思われます。


 ところで真田家の遠い祖先は甲賀流忍者の頭領・望月家であったという説があります。伝説ですが、真田家には忍者に関係ぶかい話がたくさんあるようです。

 

『加沢記』、『吾妻記』には真田の忍者の名前が紹介されています。唐沢玄蕃、角田新右衛門、割田新兵衛、割田重勝、田村角内、田村左次右衛門、剣持喜右衛門など。

 ほかにも禰津信政、鷲塚佐太夫、横谷左近などなど……さまざまな実在の忍者が『立川文庫』の猿飛佐助、霧隠才蔵のモデルとなりました。


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