五
人気のなくなった公園のブランコに腰掛けた二人は、暫くお互いに口を開かなかった。
黄色だった遠い空に紫色のものが混じり始め、闇が静かに降りてくる。
それを眺め遣り、無表情なままで黙りこくる隆哉を相手に、どう切り出したものかと考える。
仕方なく彬は、窺うように上目遣いな目線を隣の男へと向けた。それに気付いた隆哉が、フイと顔を向け、ぼんやりと呟く。
「ああ、ご免。どう話したらいいかと、迷ってた」
――今のは、迷ってる顔だったのかよ。
苦笑を浮かべた彬は、読み取り難い男の顔を眺めたままで「それでもさっきは、ちゃんと怒ってたよな」と首を傾げた。
そんなにまで、俺の態度がムカついたって事なんだろうか? でも、あいつのさっきの言いよう様を考えると、俊介の心情を考えてと言うよりは、俺の――。
「俺の、足には」
「えっ?」
突然話し出した隆哉に、我に返る。その彬の顔をチラリと見遣った隆哉が、左の太腿を擦りながら言葉を続けた。
「俺の足、左の太腿には大きな痣があるんだけど」
「ああ、それなら知ってる」
体育の授業を思い出しながら、彬は頷いてみせた。
「あの左腿の側面にあるヤツだろ。よくあんなんで走れるよな。痛くないのか?」
顔を顰める彬に、隆哉の虚ろな視線が向けられる。その二人の間に、微妙な『間』が流れた。
「何?」
「――…判らない? この場所」
立ち上がり痣の部分を彬の正面に向けると、隆哉は体を捻ってその部分を右手で撫でた。
「これは、車が最初に当たった場所。時任が、強く痛みを記憶している場所だよ」
「……え?」
――俊介、の?
困惑する彬の顔を眺めて、隆哉は再びブランコへと腰を下ろした。
「話は前後するんだけど。実は俺、一度死にかけてるんだ」
キィキィと小さくブランコを揺らした隆哉は、夕陽に視線を向け、目を細めた。
「いや、一度死んでると言った方が正しいかもしれない。俺はあんたと同じ一年だけど、歳は違う。あんたよりも一つ上の十七だ。何故ダブッてるのかと言うと、去年酷い事故に遭ってね。長く入院していたから。その時一緒にいた俺の恋人は、死んでしまった」
そこで言葉を切った隆哉は、フイッと顔を道路へと向けた。
無表情な顔は相変わらずだったが、何かを見てるかのようにそのまま動かなかった。
「知ってる? あの世へ逝くみち路っていうのは、この世の道と変わらないんだ。――ああ、でも。アスファルトじゃなかったな」
気を取り直したように顔を彬へと戻した隆哉が、再びのんびりと話し始める。
「ちょっとした田舎道って感じかな。いつの間にか俺達は、そこを二人で歩いていたんだ。どこへ向かっているのかなんて、お互いに知らない。でもどっちに向かえばいいのかは、不思議と判るんだ。どのくらい歩いたかな、ある地蔵の前を通った時。あいつは突然、ハッとしたように足を止めて俺の腕に絡めていた手を解いた。驚く俺を引っ張って、元の路を戻って行く。そしたら、通って来た筈の路がなくなってて、その先は崖になってしまってたんだ。不思議に思って隣に立つあいつを見ると、何故だか泣いてる。今まで、俺の前でも泣いた事なんてなかったのに。ボロボロ大粒の涙を流して、底の見えないその崖の下を見つめているんだ。俺が『どうしたんだ?』って声をかけても、あいつは俺の背中に縋りつくようにして泣き続ける。さすがにね、不安になったよ。あいつは普段、縋って泣くようなか弱い女じゃなかったから。――でも次の瞬間、もっと信じられない事が起こった。あいつは俺を、崖の下に突き落としたんだ。俺は必死で崖のふちに掴まったよ。信じられない思いで。それでもあいつは、懸命に俺の手を剥がそうとしてる。凄い形相で『時間がない、時間がない』って叫びながら。とうとう片手だけでしがみつく俺に、あいつの両手が添えられた。そして容赦なく、躊躇いもなく、俺の手を引き剥がしたんだ。でもその時、一瞬だけ俺は、あいつの手を握る事が出来たよ。すぐに剥がされてしまったけどね。最後に見たあいつの顔は、何故だか笑ってた。涙に濡れながら……。俺にはその時の、あいつの真意が今でも判らない。訊く事も、出来なかったから。――そして次に気が付いた時、俺は病院のベッドの上にいたんだ。……俺だけが」
話の内容の割に淡々と話す隆哉に、探るような彬の視線が向けられる。言葉とは裏腹の、無表情な男の横顔を見つめていた。
「真意ったって。そりゃあ、お前を助けたかったんだろうよ」
「……そう思う?」
「え?」
改めて問われても困る。戸惑った様子で少し身を引いた彬は、怪訝な瞳を隆哉に向けた。
「だって現に、お前だけが助かったんだろ? ――違うのか?」
顔は真っ直ぐ夕陽に向けたまま、隆哉がチロリと目の端で彬を捉える。そうしてゆっくりと瞼を閉じた隆哉は、首を傾げてみせた。
「結果を言えばね、確かにそうだよ。でも、判らないだろ? あいつの心の中なんて。あいつはあの日、俺と一緒にいなければ死ぬ事もなかったんだ。だからあいつは、俺を恨んでいるのかもしれない。もしかしたら、俺をあの崖から落とせば自分は助かると思っていたのかもしれない。俺が憎くてあんな事をしたのかもしれない。――そうは思わない?」
「……そんな、むな虚しくなるような事。言うなよ」
俊介の気持ちを、言われてるみたいだ。
沈鬱な表情を浮かべた彬は、ブランコの鎖にしがみ付くように腕をまわした。
「中々シュールだろ?」
隆哉の言葉になんと答えていいか判らず、彬は只隆哉の顔を見つめた。一瞬自嘲的な笑みが浮かんだように見えた顔が、虚ろな瞳で彬を見つめ返す。
「それからだよ。死んだ人間の姿が、そこ此処に視えるようになったのは。それも性質の悪い事に、生きてる人間と変わりなく視えるんだ。彼等は、何かしらの理由があってこちらに留まっている。それを為すまで、あの世へは逝けない。だから、俺にそれを託す。自分達では出来ない事も多いから。依憑の証として、この痣のように彼等は俺に烙印を押すんだ。その願いが成されるまで、この印は消えない」
左の太腿を擦った隆哉は、そのまま俯いた。
「時任の願いは、最期の瞬間に抱いた疑問。『何故傍に来てくれないんだ?』という事の答えをみつける事だった。時任はその最後の思いに縛られて、あの場所から一歩も動く事が出来ないでいる。だから、相手に直接答えてもらうのが一番だと思ったんだけど。これが中々手強くてね。上手くいかなかった」
「ハハ…。そうか?」
「そりゃ、殴る気満々なくせに、人がせっかく殴られてもいい覚悟をしたら、肩透かしをくらわしてくれるし。調子狂うったら」
その台詞に、彬がブランコからずり落ちる。
「それはこっちの台詞だっての!」
「なんで? 俺はあんたの事、殴る気なんてなかったよ」
「言いてぇのは、そこじゃねぇ!」
ビシッと手をつけて突っ込んだ彬は、その手を額にあてて頭を振った。
「ハーッ。俺とお前がすんなりと会話出来るようになるには、長い時間がかかりそうだな。問題点が山積みだ」
「累累たるもんだね」
のんびりと答える隆哉の顔を指差しながら、取り敢えず宣言してみる。
「ちなみに俺は、お前が一つ年上だと知ったからって、敬語を使うつもりはさらさらないからな」
「なら俺は、短気なあんたに合わせるつもりはないかな」
「お前ののんびりさにも、付き合いきれねぇ」
「好戦的な性格もちょっと……」
上等! と張り合ってくる相手を睨みつけた彬は、唇の端をチロリと舐めた。
「それなら! その無表情な顔と感情のない声をやめろッ」
「ああ、それは無理」
即答する隆哉に、「なに?」と彬が片眉を上げる。眉間に皺を寄せて、呆れ半分の声を発した。
「じゃあ、さっきのはなんだ? 壁に拳をあてた時は、えらい形相で怒ってたろうが。何もそこまでって言うぐらいよ」
「そこが、変なんだよね」
口元に手をあてた隆哉が、考え込むように首を傾げる。
「ああ?」
「俺はあの時、最後にあいつの手を握り返した時。俺は、心を遺してきたんだから。あいつに」
口元から手を離し、自分の掌を見下ろす。
「心?」
「そう。俺の愛情とか願望とか、そういうモノ全部。だから俺の心には、いつもポッカリ大きな穴が空いている。俺に生きてく理由なんてない。俺の想いは、全てあいつに向いていたから。もう、これから人を好きになる事もないし、何かやりたい事をみつける事もない。俺は只待ってるだけなんだ、いつか死ぬ瞬間を。あいつが迎えに来てくれる、その『瞬間』だけを」
遠い目をした隆哉に、彬は目を瞠った。
――なんて、強い。
表情や声音からは、到底窺い知れない程の『想い』。そんなモノが、こいつにあったなんて……。
「何を、縁起でもねぇ」
自分でも声が掠れているのが判る。一途な想いに感動する半面、『あいつが迎えに来てくれる瞬間だけを待ってる』という言葉には、心底戦慄を覚えた。
『俺ならあいつを拒絶なんてしない』
そう言外に言われている気がして、心に痛みを覚えずにはいられなかった。
そんな彬を窺い見た隆哉が、目を細める。その顔は、笑っているように見えた。
「これは少し、おしゃべりが過ぎたみたいだ。俺が言いたいのは、不思議だなと思ったんだ。さっきあんたが時任を蹴り飛ばした時、甦ったから。少しの間だったけど」
「何が?」
「俺の、心」
「え?」
訊き返す彬を見る隆哉の瞳は、相変わらず感情を映していない。黒い硝子玉のまま、淡く彬を映していた。
「俺が言ってるのは、表現としての言葉じゃない。俺は本当に、『心』を遺してきたんだから。なのに、何故なんだろう? あの日以来、こんな事なかったのに。何を言われても、目の前で何が起こっても、何も感じなかった筈なのに……。半分死んでる、俺の心は」
言葉と共に心臓に手をあて、そっと拳を握る。
「じゃあ、段々と戻ってきてるんじゃねぇ? その心ってヤツが。よく解んねぇけど」
「うー…ん。戻ってきてるというよりは」
組んだ足に肘を乗せた隆哉は、その手で顎を支えながら彬に目を向けた。
「――あんた。変だよねぇ」
しみじみといった様子で告げる隆哉に、「お前には負けるよ」と心の中では突っ込みを入れつつ、彬はにへらと笑ってみせた。
「心当りが多過ぎて判んねぇなぁ。そいつは、治しようもねぇけど性格の事か? もしかして頭とか? しゃべり方? 雰囲気? それとも昨日言ってた顔の事かよ?」
「顔? 俺、あんたの顔が変だなんて言った憶えはないけど」
首を捻る隆哉の言葉に、天を仰ぐ。
「……またかよ。お前心だけじゃなく、記憶力にも問題ありなんじゃねぇのか? あのねぇ。お前は昨日俺の顔見て言ったの。『それ、酷い顔だね。いつ頃から?』って。あれはどー聞いても褒めてる口調じゃなかった。親が聞いたら泣くぜ? 俺も含めて、俺の家族は全員人並み程度の顔は持ち合わせてると思ってんだから。――ったく。こける寸前に言った言葉も忘れてるし、どーいうこった」
ほんと疲れる、と片手で頭を抱え込んだ彬の耳に、隆哉の微かな呟きが届く。
「そーいや、そんな言い方したかも」
「だー、今頃かよ!」
ガックリと大げさにうなだれてみせる彬に、隆哉が顔を逸らす。掌に顎は乗せたまま、隆哉は「んー」と小さく唸って宙を見据えた。
「誤解のないように言っておくけど。少なくとも、あんたの解釈には二つの大きな『間違い』があるんだ。一つはさっきも言ったように、『どうしてあの時、傍に来てくれなかったんだ』という言葉は、俺が言ったんじゃないという事。そして二つ目は、昨日俺が言った『その顔酷いね』の言葉の意味を、あんたが穿き違えてるという事だ」
「ああ?」
「俺があんたの手首を掴んだ時、時任の声が聴こえたって言ってたろう? あれと一緒さ。足が絡んだ時、俺の中にあった時任の声が聴こえたんだと思う。普通はあり得ない事だけど、あんた変わってるから。たぶんそーいう能力があるんじゃないかな」
「そーいう能力?」
「んー。霊感? とかそーいうの。あの時はまだ、時任からの依憑の内容がそれだったから」
「ハッハ。霊感? ねぇよ、そんな 」
軽く笑い飛ばし否定しようとした彬は、隆哉の言葉に違和感を覚えて言葉を途切らせた。
「あの時はまだ? どーいうこった? それじゃまるで」
「そう。変わったんだ、内容が」
信じられない面持ちで固まる彬に、隆哉の虚ろな視線が向けられる。
「それがあの『顔』の話につながるんだけど。あの日体育の授業の時まではなんともなかったのに、帰りに見たあんたの顔には『死相』が出てたんだ。はっきりとね」
「しそう?」
「うん。死が近い事が顔に出てた。俺には視えるから。そーいうモノも」
「って、俺もうすぐ死んじまうって事かぁッ?」
驚愕の表情で絶叫する彬に、隣の隆哉は事も無げに応じる。
「まあ、そーいう事だね」
「そーいう事ってどーすんだよッ! 俺はお前と違ってなぁ、まだ死にた――」
――え…?
彬が言葉を詰まらせるのと、隆哉が言葉を遮ろうとして片手を上げるのとは、ほぼ同時だった。
――ちょっと、待て。
「あんたが死にたがってない事ぐらい、百も承知だよ」
ゆっくりと息を吐き出した隆哉が、隣で蒼ざめる彬にチロリと視線を向けた。
「どうした?」
虚ろな視線を宙に漂わせる彬の顔を、隆哉が覗き込む。
「いや。続けてくれ」
「あんたの顔に死相が出てる事を時任に伝えた時、変わったんだ。彼の望みが」
「俊介の、望み?」
その途端。彬の頭には、はっきりとした『答え』が浮かんだ。
――そーいう事、なのか? 俊介?
誰だって死にたくはない。そうだ。お前だってまだ、死にたくなんかなかったよな?
でも――。
でももしそれが、『二人で』なら……?
お前もそう思ってくれたか? 俺とならば、って。
前髪をかき上げ、かなり暗くなってしまった道路へと顔を向ける。
なぁ俊介。俺を、待っててくれるのか?
「それなら」
小さく呟いた彬は、もう視る事すら叶わない親友へと、微笑みを浮かべた。
「それなら、悪くねぇよ」