四
何度も躓き、つんのめりながら腕を引っ張られていた彬は、公園の前の道路に出た途端に足を止めた。
あの時と同じ真っか緋な夕陽。周りに誰もいない光景は、あの時にタイムスリップしたような錯覚を起こさせた。
――だが俺の隣にいるのは、俊介じゃないんだ。
立ち尽くす彬の腕を放した隆哉は、ゆっくりと足を進めて立ち止まった。
その場所で膝を付き、誰かに話しかけるように声を出す。
「手っ取り早そうだったから、連れて来た」
あたかもそこに人がいるとでも言いたげに、何も無い場所を見つめる。
――あの、場所……。
そこは、『あの場所』だった。――俊介が弾き飛ばされた場所。
俺の名を呼びながら、ずっと待っていた場所だ。
「悪い……ジョーダンかよ」
その場所を凝視する彬の唇が、皮肉げに歪む。本人はなんとか笑みを作っているつもりだったが、それを笑みと呼ぶにはあまりにも引きつりすぎていた。
「しっかりね」
彬の顔を見遣ってそれだけ言うと、隆哉は立ち上がり背を向けた。
「それじゃ」
「それじゃ、って。そんだけか? 俺一人こんなトコに残して、どーすんだよ」
「一人? 違うよ。視えるでしょ」
チョイチョイと地面を指差す隆哉に、一瞬視線を落とした彬が眉間に皺を寄せ、首を振る。
「いんや。なんも見えねぇ」
そこは確かに俊介が倒れていた場所。だが、今も何が残っているという訳でもない。
あの時俊介の血が流れて辺りを緋く染めた――今となっては、只それだけの場所であった。
「視ようと思わないから、視えないんだよ」
「ちょっ…と、待てって!」
歩き出した隆哉を慌てて追いかける。その肩に手をかけた途端、何かに足を取られてガクリと膝をついた。
「いってェ!」
咄嗟に両手を地面についた彬が、尻餅をつくようにして体を捻る。何が引っ掛かったのかと、自分の足元へと視線を落とした。
「……ヒッ…!」
その足首を掴むモノを見下ろして、彬は小さく悲鳴をあげた。
「……俊…す……!」
掠れて、声が出ない。
彬の足首を掴んでいたのは、血に塗れた手。――俊介の手だった。
這いずるようにして、血に濡れた顔で彬を見上げている。小刻みに痙攣する体は、それでも彬に近付こうと、必死に地面を這っていた。
「……あ…き…」
ゴポゴポと動かす度に血が溢れる唇が、彬の名を呼ぶ。俊介が近付いて来る距離の分だけ、彬は無意識に後退っていた。
腰が抜けて、立ち上がる事すら出来ない。彬の足首を掴む手には、これ以上ないくらいに強く力が込められていた。
「……あ、…きー…らぁ」
妙に、間延びした声。
ガクンガクンと這いずる肘が力を失い、地面に顔をぶつける。それでも俊介は諦めず、彬へと手を伸ばした。
彬はあまりの事に声も出ず、もう後退る事すら出来ず、只俊介を凝視していた。
ガッと、俊介が彬の立てた膝に手を置いた。凄い力で膝を掴み、更に這い上がってくる。
手を伸ばして、彬の制服。心臓の丁度上の部分を掴む。血を滲ませ見開いた目が、彬を見据えていた。
あまりの力強さに、心臓を握りつぶされるのかと思う。
「――お前。俺を」
途切れた彬の言葉に、俊介の動きが止まった。
「俺、を……」
言葉が出ない。
ずっと思ってきた事なのに。ずっと、訊きたかった事なのに。
――『俺を、恨んでいるか?』
下唇を噛み、彬は苦悩の表情を浮かべた。それを見つめる俊介の口許に、うっすらとした笑みが浮かぶ。
「あ、きらぁ」
血塗れの手が、ゆっくりと彬の顔へと伸びてくる。
――殺される!
何故、それを拒んだのかは判らない。
もう何度も、触れられていた筈だ。頬も、首も、胸元すらも――。
ギュッと目を瞑った彬は、次の瞬間、俊介の体を蹴り飛ばしていた。
「…あっ……!」
途端。自分のした事が信じられず、彬は体を起こして俊介の姿を捜した。しかし、確かに感触のあった俊介の体は、今やどこにも無い。跡形もなく、消えてしまっていた。
「俊介ッ! 俊介ェ!」
ヨロヨロと足を進めながら、四方をあてもなく捜す。しかし親友の姿はもう視えず、声も聴こえない。
「俊介…ッ!」
心臓が軋み、彬はさっきまで俊介が掴んでいた制服の胸の部分を、両手で必死に掴んでいた。
俊介――俺はッ!
涙が、溢れ出す。
――どうして俺は、こうなんだ!
あいつが望むなら、死んでやってもいい筈なのに。あいつのいない毎日なんて、ちっとも楽しくなんか、なかったじゃないか。
淡々と毎日を過ごして、只、安らぎだけを求めた日々。そんなものに、未練なんかこれっぽっちもないのに。
どうして肝心なこの時に、あいつにそれを伝えてやれないんだ!
「俺、は……ッ!」
膝を付き、自分の皮膚ごと制服を鷲掴みにした彬の後ろで、ガンッと音がした。
「何やってんだ! お前!」
吐き捨てるように叫ばれた言葉に、振り返る。そこには、横の塀に拳をあてギリリッと歯を食いしばった、隆哉の姿があった。
「馬鹿が!」
もう一度、拳を塀にあてる。初めてあからさまな感情を映した瞳は、怒りを含んで赤く光っていた。
塀を擦るようにして放した手からは、血が滲んで滴っている。
「…血、が……」
呆然と呟かれたその言葉に冷たく彬を見下ろした隆哉は、ツカツカと歩み寄って来ると、彬の前で足を止めてしゃがみ込んだ。彬の顔の高さに、自分の顔を合わせる。
「あいつの痛みは、こんなモンじゃないだろう?」
彬の瞳を覗き込んだ隆哉が、責めるように低く告げた。ペロリと、手から出る血を舐め取る。
「何故、ちゃんと訊かなかった?」
「え?」
「訊きたい事があったんじゃないのか? それとも言いたい事か? 俺はてっきり、お前がそれを引き摺ってるんだと思ったんだがな」
キツい口調で言って目を伏せた隆哉は、深い溜め息を吐いた。そして再び感情の出ない、暗い瞳へと戻ってしまう。
波がひくように、顔の表情も急速に消えていく。
「まあ、いいか。俺は、彼からの『依憑』を叶えればいいだけだから……」
「いひょう?」
「聴こえなかった? 彼の望み。あんなに近くにいたのに。――まあ、仕方ないけど」
虚ろな瞳で彬を見てから、隆哉は立ち上がった。立ち去ろうとする背中に、必死になって声をかける。
「どういう事だ? あいつは、なんて」
ゆっくりと、隆哉が振り返る。無表情に首を傾げると、のんびりとした声が答えた。
「何を今更、聞きたいの? だってあんたは、拒絶したじゃないか。彼を」
「ち、がう。違うんだ! なあ、あいつはどこに行ったんだ?」
「………」
暫くの沈黙。無言で彬を凝視していた隆哉が地面を指差した。感情の窺えない声で低く言う。
「いるよ、さっきの場所に。もうそれすらも、拒絶するんだね」
「なんだよ、それ!」
ムッと顔を顰めた彬は立ち上がると、今度は自分から隆哉の手を掴んだ。逃がさないぞと、思いを込めて。
「なんで、あいつとしゃべれる? どうして、俺には聴こえない、あいつの言葉まで聴こえるんだ?」
「……ねぇ、さっきも言ったけど。聴こえないんじゃなくて、聴かないんだ、あんたは。視ようとしないから視えないし、聴こうとしないから聴こえない」
「違うだろ! 俺が言ってんのは、さっき言ってたあいつの『いひょう』ってのはどーいう事だっつってんだよ! お前が何を叶えるって言うんだッ?」
グッと手に力を入れた真剣な眼差しの彬に、無表情な瞳が応じる。
「まだ、知りたいの?」
気乗りのしない声で言った隆哉に、彬は力強く頷いてみせた。
「当たり前だろ」
その言葉に、フイッと隆哉の顔が背けられる。そっぽを向いて何かを考えていた彼は、彬に視線を戻し、微かに頷いた。
「いいけど。――取り敢えず、その手放して」