三
薄っすらと眩しさを伴う陽差しの中。道路の傍らの塀に背を預けて立つ人物に、彬は足を止め大きく溜め息をついた。隣を歩いていた秀行が、驚いたように振り返る。
「……また、お前か…」
敵意剥き出しの声に、秀行が顔を廻らせ塀に凭れる隆哉に視線を移した。訳が解らないというように、二人の顔を交互に見遣る。
背中を塀から引き剥がした隆哉は、チラリと秀行に視線を投げてから、陽差しを背に受けて彬に向き直った。
「忠告は、聞き入れてもらえなかったんだね」
首を傾げるようにして言う隆哉に、彬はハッと笑いを吐き捨てた。
「忠告? なんだそりゃ。俺も言った筈だぜ、お前に教える事なんか一コもねぇってな。毎日毎日学校の帰りに待ち伏せされて、とっても迷惑! 消え失せろ~って感じなんだけど」
大袈裟に肩を竦めて、せいぜい不愉快さを表現してやる。
「毎日毎日って、まだ二日目……」
ぼそりと小さく呟かれた隆哉の台詞に、キラリと彬の瞳が光った。
「ほぉぉー、じゃ、明日からはこんな事はないって訳だな」
唇の端を舐め、好戦的な笑みを浮かべる。
それに「どうかな」と小首を傾げた隆哉は、「それは、あんた次第だ」と付け加えた。
「へぇ?」
「一緒に、帰らない?」
「却下だ、お断り。行こうぜ、ヒデ」
淡々とした口調で誘われても、不気味なだけだ。友好を深めようとしているとも思えない。
横を通り過ぎようとした彬の手首を、隆哉が掴んだ。反射的に振り払おうとした彬の耳に、突如、聞き慣れた声が囁く。
――『…あきら…』
ギョッとして、隆哉に目を剥く。勢いよく彼の手を振り払った彬は、自分の手首を掴んで飛びすさ退った。
「な…なな、なんだよ、今の! どーして……」
――今の、声は……!
「俊介の、声だったぞ」
蒼ざめたままズリズリと後退る彬は、塀にぶつかって足を止めた。それでも出来るだけ下がろうと、背中を塀に押し付ける。
「……えっ」
微かながら、初めて感情を含んだ声が隆哉の唇から洩れた。
「声が――聞こえた…って?」
自分の掌を見つめ、視線を上げて彬を見る。そうしてまた掌に視線を落とすと、理解不能とでも言うように首を傾げた。
「ウソだろ」
ボソリと呟かれた隆哉の言葉に、跳ねるように彬が体を塀から剥がす。
「そりゃ、こっちの台詞だよ! ってか、昨日もお前、変な事言っただろうが! なんだありゃあ!」
隆哉の顔を指差し、捲くし立てながら足を進める。彬の剣幕に驚いた秀行が、宥めるように彬の肩を押さえた。
「ちょっ、落ち着けって」
「昨日? なんの事?」
秀行の姿が見えていないかのように、隆哉は彼を完全に無視して彬に問いかけた。
心当りはないと、言いたいらしい。
「体育の時間! こける寸前、言っただろ! 『どうしてあの時、傍に来てくれなかったんだ』って!」
隆哉の前で足を止め、人差し指を突き付けながら言う。その彬の顔をじっと見つめていた隆哉は、ゆっくりと首を左右に振った。
「俺? ……いいや、言ってない」
淡々とした口調には変わりないが、その声には何処とはなしに戸惑いの色が見え隠れしている。
「それって、俺の声だった?」
思いがけない隆哉の台詞。その顔を信じられない思いで見上げた彬の口から、動揺した声が吐き出された。
「ちょっと待て。お前じゃないって、じゃ、誰なんだ?」
唇に指先をあて暫く考え込んでいた隆哉が、ポンと手を打った。
「やっぱり一緒に帰ろう。それしかない」
それだけ言って、歩き出す。
「待てよ! まだ一緒に行くなんて言ってねぇぞ!」
彬の叫び声にピタリと足を止めて振り返った隆哉は、虚ろな瞳で彬を見つめた。
「納得したいならついて来て。別にいいなら構わない。今すぐ決めてね。両方、三秒以内」
――結構、根に持つタイプじゃねぇかよ。
返事を待たず歩き出した隆哉の背中に、彬は中指を突き立てた。
「上等! って訳でヒデ、俺行くわ。ワリィ、今日は一人で帰って」
片手を振って歩き出した彬に、秀行が心配そうに声をかける。
「大丈夫か? 俺も一緒に行こうか?」
「いんや、心配ご無用」
ニンマリと笑ってみせると、腰に手をあてた秀行が溜め息混じりに告げる。
「悪いけど、俺が心配してるのは相沢の方だ。さっきのお前を見てると心配だよ、問答無用で殴るんじゃないかって」
それを聞いて振り返った隆哉が、後ろ向きで足は進めたまま掌を突き出した。
「それは、有難迷惑。ついて来ないで」
言い切った隆哉に、秀行の眉尻がピクリと引き上げられる。
「そうだな。やっぱりついて行かない方が賢明みたいだ」
そこはさすがに秀行。我は通さず、引いてみせる。
彬が感心したのも束の間。秀行は腕を組み、不快も露わに隆哉を見据えた。
「加害者が、二人に増えるだけみたいだし」
その言葉にカカッと高らかに笑った彬は、「な? 誰でもこうなるだろ?」と心の中で自分を正当化していた。
「なあ、これを一緒に帰ってるって言うんだろうかな?」
少し前をのんびりと歩く隆哉に、彬は顔を背けながら問いかけた。先程から会話もなければ振り返る事もしない。そもそも家に近付いているのかさえ、怪しかった。
「帰るってのは、帰宅するって意味だよな? 俺んち、こっち方面じゃないんだけど」
更に返事のない隆哉に、彬はフンと鼻を鳴らしてみせた。
「楽しくもない散歩を、面白くもない相手とするつもりはないんですがね」
ここまで無反応を貫かれると、嫌味の一つも言ってみたくなる。その言葉に足を止め微かに振り返った隆哉は、のんびりと答えた。
「ああ、大丈夫。俺の家は、こっち方面だから」
「ほぉ。それって何かなぁ? もしかして、俺に家まで送れと言っているのかなぁ?」
おどけたように言葉を繰り出すが、彬の瞳は少しも笑っていない。
眩しさを増した夕陽を背に受ける隆哉を真っ直ぐ見据えたまま、探るように彬は言葉を付け足した。
「それとも、家に寄っていけと言いたいのか?」
――それで、謎が解けるってのか?
こいつが俊介に見えた事も、俊介の声が聞こえた事も、全て。
瞬きもせず見据えたまま、こくりと唾を飲み込んで相手の反応を待つ。
「両方、ハズレ」
「は、あぁ?」
カクリと拍子抜けする彬を、感情の出ない瞳で隆哉が見返した。
「おかしいな。勘はいいって聞いたのに」
顎に手をあててぼんやりと呟く。「誰にだよ」と訊いた彬を完全に無視し、再び背を向けて歩き出した。
「家まで来てくれなくていいよ。目的地はもうすぐだから」
「えっ」
小走りに駆け寄った彬が、今なんか変な事言ったぞ、と隣に並んで隆哉の顔を覗き込む。
「目的地? どーいうこった?」
答えない相手に、「むー」と唸った彬は気を取り直して更に疑問をぶつけた。
「それに、勘がいいって聞いたっつったな。――一体誰が、お前にそんなベラベラと俺の事をしゃべるんだ?」
訝しげに訊いてくる彬に、チラリと視線だけを隆哉が向ける。
「なるほど。あながちウソではなさそうだ。行けば解るし、会えば判る。とだけ答えとくよ」
「ああ? 誰かに会わせたいのか? さっぱり解んねぇ」
ボリボリと頭を掻いた彬は、何気なく曲がった角で足を止めた。
――この道は。
いや、正しく言えば、この道の先は……。
「はい! もう一コ質問!」
勢いよく手を上げた彬に、隆哉が振り返る。
「なんでしょう?」
「この後の道順ですが、この先のあの角を左に曲がって、三つ目を右に曲がるつもりなんでしょーか?」
手は上げたまま、小学生が先生に訊くように質問する。視線を微かに上げて頭の中でイメージした道順を進んだ隆哉は、「ほぅ」と小さく感心の声を洩らした。
「アタリだ」
途端に、彬の顔色が変わる。敵意を剥き出しにした瞳で、隆哉を睨みつけた。
「やっぱりお前、事故の事知ってんな。目的はなんだ? 何がしたいんだ?」
「だから。行けば解るって」
「今言え! じゃねぇと、行かねぇからな! ……いや、やっぱいい。俺はこっちから帰る」
このまま行くと、あの場所に出てしまう。もう二度と通らないと決めた場所。
俊介の命を奪った、あの場所に――。
角を曲がらず歩いて行く彬の背を、隆哉の声が追いかけた。
「……なんで? 納得したいんじゃないの?」
その言葉に振り返った彬が、ジッと隆哉を見返す。やがて力を抜くようにゆっくりと息を吐き出した彬は、力無く微笑みを浮かべた。
「俺はな、あの場所はもう通らないと決めたんだ。思い出したくない。あいつは、俺の所為で死んだんだから。お前が何をしたいのか知らないが、もう関わりたくない。頼むから、そっとしといてくれよ」
今まで誰にも見せた事のない『怯え』。
初めて自分の弱みを見せた彬は、目の前にある男の瞳が、一瞬揺れたのを見た気がした。それが見間違いなのか、夕陽の反射の所為だったのか。判断がつかないままでその場を立ち去ろうとする。
「じゃ、な。そーゆう事だ」
「待って!」
珍しく声を張り上げた隆哉は、慌てた様子で彬の腕を掴んだ。
「駄目だ、行くべきだ」
「ああ?」
彬の腕は掴んだままで、言葉を続ける。
「ヘタな嘘は逆効果。それなら、本当の事を言おう。あんたが今まで何度か口にしてきた『誰』という疑問。その答えとなる相手がこの先で待っている。――いいか。これから向かう場所で待っているのは、あんたの『親友』だ」
「えっ」
言葉の意図を探るように目の前の男を見据える。心臓が震えて、上手く言葉が出てこなかった。
「――どういう……意味、だ?」
「自分で確かめろ」
低くそれだけ言った隆哉は、彬の腕は掴んだままで歩き出した。
真っ直ぐ前だけを見て歩く男は、戸惑う彬を引き摺るようにして歩く。腕を掴んだその手からは、「逃がさないぞ」という強い意思だけが滲み出ていた。