一
――誓いを、破ったからかもしれない……。
目の前の男を凝視した高橋彬は、心の中でそんな事を考えていた。
情けなくグラウンドに座り込んだままの彬に、無表情な男が手を差し伸べる。
「大丈夫か?」
全然、心配そうじゃない。
口先だけで声をかけてきた相手に、彬は手を振って答えた。
「ああ。どうって事ない」
差し出されたままの手を無視して、立ち上がる。パンパンッと体操着の土を払う彬に、周りの生徒達が声をかけた。
「どうって事ないって顔色じゃねぇぞ」
「膝も痛そうだしさ」
「気分悪いんじゃないか?」
気分も、悪くなるさ。
ペッと血の混じった唾を吐き捨てた彬は、小走りで近寄ってきた体育教師に自分の膝を指差した。
「すんません。保健室行ってきます」
「――ああ。早く行ってこい」
血の流れる膝にチロリと視線を落とした大柄の男は、大した傷ではないと判断したらしい。
しかしそれでも、蒼ざめたその顔色の悪さには、反応を示す。
「大丈夫か?」
肘を掴む教師に微笑を浮かべた彬は、他人の同行を拒絶した。
「一人で行けます」
歩き出した彬の後ろ姿を暫く見送っていた体育教師は、その足がふらついていない事を確認して視線を逸らせた。
ピィーと背後から笛の音が響き、サッカーの試合が再開された気配に彬は振り返った。
先程、自分と縺れるようにして転んだ男を視線で追う。
――あの足さばきは、『俊介』のもんだぞ。
信じられない思いで見つめ、手が無意識に体操着の左胸の部分を鷲掴みにした。
あの少し強引なボールの奪い方。あれは、他の奴に真似れるようなモンじゃねぇ。
しかし、そんな筈はない。あいつが俊介の訳はないし、そもそも俊介は死んだのだから。
――俺の、目の前で。
彬の視界が、緋く染まる。血が流れるように、上からゆっくりと……。
思い出すのは、血のように緋い夕陽。
人形のように、横たわるあいつの姿。
いつもの帰り道。普段よもり早く部活が終わったその日は、途中の公園でボールを蹴り合いながら、二人で帰っていた。
何気に蹴ったボール。予想以上の勢いで、それは道路へと飛び出した。
「ヘタクソ! 彬」
ボールを追いかけながら振り返った時任俊介が、ブンブンと腕を振る。
「ワリィ!」
アハハッと笑って応えた彬は、次の瞬間、凍りついた。
――『危ないッ!』
その言葉すら声に出せず、俊介の体は軽々と宙に舞った。一瞬にして、俊介が視界から消える。
「俊介ェ!」
叫んだ彬は、弾かれるようにして駆け出した。公園の入口で足を止め、急停車した車の先に視線を向ける。
目に入ったのは、緋い夕陽。そして、人形のようにグッタリと横たわる親友の姿。
「あっ……!」
彬は制服の胸の部分をギュッと掴んで、動けなくなった。
血塗れの顔が、こちらに向いている。虚ろな瞳は只、夕陽の輝きと、彬の姿をぼんやりと映していた。
まるで、地獄のようだと思う。もちろん地獄など見た事はないが、これ以上の地獄なんてある筈がなかった。
「あ…き……」
微かに動いた唇から、血と共に掠れた声が洩れ出る。
――俺を、呼んでる。
それでも彬の足は動いてくれず、そのまま立ち尽くした。
「…あ……あ…」
痙攣する腕を伸ばし、彬に手を差し伸べる。こうまでしても、彬の足は地面に貼り付いたように、ピクリともしてくれなかった。
そのくせ一方では冷静に、酷く動揺した運転手が救急車を呼ぶ声を聞いている。
これ以上の地獄なんてない。だって、コポコポと血を吐き出しながら自分を呼ぶ親友に、この足は、動く事すらしなかったのだから。
――どうして、動いてやれなかったんだろう。駆け寄って、その手を取ってやれなかったんだろう。
どうして、夕焼けよりも緋い視界に、顔を近付けてやれなかったんだろう。
どうして、一番不安であろうあいつの傍に、ひざまず跪いてやれなかったんだろう。
どうしてッ!
――『大丈夫だ』
そう言って、やれなかったんだろう。
親友、だったのに……!
後悔は鎖となり、もう償えない罪として彬を縛り付ける。あの日からずっと、彬の手は虚無を掴んでいる。掴むべき手を、失ったから……。
あの日から、サッカーはもうやらないと決めた。
あいつがいないなら、面白くないから。ボールを蹴る度に、あいつを思い出すから。あいつのいないグラウンドに、俺の居場所はないから。
――あいつとの約束は、永遠に叶えられないから。
その誓いを破ったから、罰が当たったのだろうか……。
『どうしてあの時、傍に来てくれなかったんだ?』
こける寸前、男から吐き出された言葉。
あんな事を言う人物は、彬が知る中で一人だけだった。
「…まさ……か…、な」
思い浮かんだ疑惑を、首を振って強引に断ち切る。
目で追う男は、微かに左足を庇っている。びっこを引く左太腿に、赤く痛々しい痣が広がっていた。
「……よくあんなんで、走れるな」
呟いた彬の声が聞こえたかのように、男は足を止めてこちらを見遣った。
虚ろな瞳のままゆっくりと髪をかき上げ、トンットンッとつま先で地面を蹴る。
「……うそっ…!」
――あの『癖』は!
無表情で彬を見つめる男の顔に、もう一つ。別の顔が重なって見えた。
「俊介……!」
驚愕に目を見開き、思わず後退る。
それは紛れもなく去年死んだ、親友の顔。一日として思い描かなかった日などない、俊介の顔だった。
――それも、血にまみ塗れたあの時の顔、そのままで。
「………グッ……!」
心臓が悲鳴をあげ、体が呼吸する事を拒む。体操着ごと心臓部分を掴んだ彬は、そのまま両膝を付き、倒れ込んだ。
遠くに、生徒達の声が聞こえる。何人かは、自分の名を呼んでいた。
薄れゆく意識の中で、彬は今まで何度も心の中で呟いてきた言葉を、再び繰り返していた。
――『俊介、恨んでいるか?』と。
「おーい、高橋ぃ! とっくに授業終わってるぞー」
笑いを含んだ声に意識が戻る。「んー」と小さく唸った彬は、ゆっくりと瞼を開けた。見慣れぬ天井を見上げ、目を瞬かせる。
「どこ? ここ……」
「保健室。まだ寝惚けるようなら、放って帰るけど」
目を擦る彬を覗き込みながら笑っていた大下秀行は、目尻に残る涙の痕を見つけ、眉根を寄せた。
「どーした? 嫌な夢でも見たのか?」
「へ?」
だって、と顔を指差しかけて、「まあ、いいや」と秀行は肩を竦めた。
「子供みたいな奴だなぁ。ほら、もう充分寝足りただろう?」
コツンと彬の頭に鞄をぶつける。ボソッと落とされた鞄を受け止めた彬は、暫く考え込んだ後、今がもう放課後になっている事にようやく気が付いた。
「なんで俺、こんなトコで寝てんだっけ?」
首を傾げる彬に、秀行の呆れた声が降り注ぐ。
「体育の時間に倒れて、その後はたっぷり今まで二時間、熟睡でございましたが」
見れば膝には少々大げさ気味の手当てがしてあり、服は体操着のままだった。
「あー、ワリィ。鞄持って来てくれたのか」
まだスッキリしない頭を振りながら言う彬に。身を屈めた秀行が顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か? やっぱ病院行った方がいいかもな」
心から心配してくれている友人の姿に、彬は笑みを零していた。
――俺の選ぶ友達ってほんと、いい奴ばっか。
しかし俊介とは、まったく違うタイプ。
あの忌まわしい事故から一年。高校に上がった彬は、わざと俊介とは正反対の友人を選んだ。
俊介がスポーツマンタイプなら、こちらは物静かな秀才タイプ。
落ち着いた雰囲気に、穏やかな物腰。一見不釣合いな二人だったが、今の彬には秀行が一番安らげる相手だった。
「制服も持って来た。どっちでもいいけど、着替えるだろう?」
普段は保健教師が座っている椅子を引いて、秀行が腰掛ける。クルリと背中を向けて、彬が着替え終わるのを待ってくれる。部屋の外に出る程の気遣いは不要と、判断したようだ。
「お前が倒れた時、最初は病院に運ぶつもりだったんだ。苦しそうだったしな。でも、相沢がお前の額に触れた途端、気持ちよさそうに寝息たてるモンだから……」
ククッと笑った秀行が椅子を回転させて振り返る。
「もうみんな、大爆笑」
その場面を思い出したのか、肘を付いた手を口元へと持っていく。
「相沢……って?」
初めて聞く名前に、彬はボタンを留める手から視線を上げた。「ん?」と小さく答えた秀行が怪訝な顔をする。
「知らないのか? 結構な有名人だぞ。ほら、お前と一緒にコケた奴。あいつが相沢だ」
「有名人? なんで有名なんだ?」
ズクン、と心臓が反応する。
出来る事なら暫くの間、あの男の事は忘れていたかったと、彬は心密かに嘆息した。
無表情な顔。真っ黒な硝子の瞳。感情のこもらない低い声。
――あんなのが俊介に見えたなんて。俺、どうかしてる……。
作り物のマネキンのような男を思い出し、彬は重々しく首を振った。
「隣のクラスの相沢隆哉。何故有名なのかと言うとだな、少し変わってるからだ。何も無い所をジッと見つめたり、誰もいないのに『後ろにいる人、誰?』って訊いたりな。みんな、気味悪がってる」
「ふーん」
気のない声で応じた彬は、立ち上がりズボンを引き上げた。
なんにしろ、自分には関係ない。
そう。相沢って奴が俊介に見えたのも、俺がもうやらないと決めたサッカーをやったから。
自分の思い描いた俊介の姿を、偶然ダブらせてしまったに過ぎない。
――只、それだけの事。
「まあいいや。帰ろうぜ」
ベッドの乱れを心ばかし直した彬は、鞄を掌に握って肩に掛けた。もう一方の手を秀行へと伸ばす。
「ほれ、置いてくぜ」
「待ってたのは、こっちだって」
顔を顰めた秀行は、その手を引いて重い腰をゆるゆると上げた。
「ハハッ。感謝してます」
秀行の背中を押して、笑い声をあげる。
それでも彬の瞳は、先程の血にまみ塗れた俊介の顔を、ずっと映したままだった。