第10話 ドッグ
「はあ!?」
衝撃の事件から3時間後、和彦が素っ頓狂な声を上げたのは警視庁内の一室だった。ちなみに一緒に部屋にいるのは寿々菜と遅れてやってきたマネージャーの山崎、それに和彦に素っ頓狂な声を出させた張本人である武上だ。
「だから。あの血は人間の物じゃない。犬だ」
「犬・・・」
唖然として立ち尽くしている和彦に代わり、再度寿々菜が訊ねる。
「犬ってあの犬ですか?ドッグ?」
「ドッグです」
・・・。再度訊ねている意味が全くないが、そこは寿々菜に甘い武上だ、優しく頷いてやる。
そして今度こそ和彦に代わって山崎が重要なことを訊ねた。
「つまりあの血は栄子さんの物じゃないんですね?栄子さんは無事ということでしょうか?」
「それはまだなんとも。行方不明に代わりはありませんから。ただ、こうなると和彦のファンの悪戯の可能性が高くなってきましたので、一時的に軟禁されてもそこまで酷いことはされないでしょう」
「そうですか・・・よかった」
武上の言葉を聞いて寿々菜は胸を撫で下ろした。しかし和彦はそう単純ではない。しかも今回は和彦も被害者だ、どうしても想像は悪い方へ広がる。
「悪戯だとしても、俺達が結婚式を挙げるホテルで犬を殺して血を撒き散らしてるんだぞ?そんなことする奴がどうして酷いことをしないなんて言える?」
「それは・・・」
武上は詰まった。もちろんそれは武上も分かっている。いや、武上たち警察の方がよく分かっている。あの血が栄子の物だと思っていた時は、警察の中に「この出血じゃもう生きていないだろう」という雰囲気が漂っていたが、生きているかもしれないとなると一刻を争う。実は武上以外の警官は既にほとんど出払っており、栄子の大規模な捜索が始まっていた。
今は和彦には警察を信じて待っていてもらう他ない。
てゆーか、ここで大人しくしててくれ。和彦が勝手に動くと余計にややこしくなる。
「大丈夫だ。警察に任せろ」
「任せられるかよ」
「この捜査網の中でKAZUの婚約者が殺されるようなことがあってみろ、警察はいい晒し者だ。警察の威信にかけても無事に取り戻す」
「俺のファンには感謝されるかもしれねーけどな」
「お前な・・・」
武上はため息をついた。だがこれくらいの軽口を叩けるなら和彦もだいぶ余裕があるという証拠だ。
・・・これはますます大人しくしておいてもらわなくてはならない。
「和彦はここにいろ。もし栄子さんを見つけたらここに連れて来るから」
「でも、」
「いいから!それより携帯はどうだ?繋がらないか?」
「何度もかけてるよ」
和彦が携帯をポケットから取り出し武上に見せた。
「電源が切られてて繋がらない」
電源が入っていれば携帯は電波を発する。その電波を辿れば、大体の所在を掴めるのだが・・・
犯人もそんなことはお見通しって訳か。
これはなかなかツワモノかもしれないな。
武上は和彦に気付かれないよう小さく舌打ちをした。
「和彦が最後に栄子さんと話したのは?」
「えっと、いつだったかな」
和彦が携帯の発信記録と着信記録をチェックする。
「ああ、そうだ。ウエディングドレスの試着の直前に電話があった」
「それは事件直前ってことか?」
「たぶんな」
「内容は?」
「別に。これから試着だとか、楽しみだとか、どんなドレスがいいと思う?だとか・・・そんな他愛のない事だよ」
「何か不審な点は?誰かにつけられてるみたいだとか言ってなかったか?」
「まさか」
「そうか・・・」
なかなかテレビドラマのように手がかりがポンポン出てきたりはしない。だが取り敢えず栄子が生きている可能性が出てきただけでもラッキーだ。
「分かった。とにかく今は栄子さんの捜索が第一だ。和彦はここにいろ。山崎さんは・・・」
「僕は失礼させて頂きます。和彦さんの仕事の調整が必要ですし、今後のことを社長とも話さないといけませんので」
「分かりました。寿々菜さんはどうしますか?」
武上は寿々菜を見た。武上としては和彦と寿々菜を2人きりにしたくはないが、今は状況が状況だ。寿々菜を呼んだのは武上自身でもある。
「私は和彦さんとここにいます」
「ではお願いします」
「あの・・・ちょっといいですか?」
寿々菜が言いながら自分で首を傾げる。
「どうしましたか?あ、もしかしてまた違和感ですか!?」
「はい」
武上は身を乗り出した。
「ホテルの従業員の太ったおじさん・・・みんなが『小次郎』って呼んでた人です」
「小次郎がどうかしたのか?」
和彦が訊ねる。
「なんか変でした」
「そう言えば、平気な顔して『死体は?』とか言ってましたね」
武上も寿々菜に同意する。だが和彦は首を横に振った。
「あのおっさんは、元々変なんだよ。あんな神経の図太い奴に違和感感じてたらきりがないぞ」
「そうなんですか・・・。でも、栄子さんが行方不明だって聞いた時の小次郎さんの反応がなんか・・・図太い割にはビックリし過ぎていた気がします」
「・・・ふーん、言われてみればそうかもな。単に事の大きさに驚いただけなのかもしれないけど」
「はい。あ、後、宗太郎さんって人も気になりました」
「え?」
こちらは和彦も武上もノーマークだったので純粋に驚く。宗太郎に特におかしなところはなかったように思うのだが・・・
「怒ってました」
和彦と武上がガクッと肩を落とす。
「当たり前だろ。自分のホテルで殺人騒ぎがあったんだぞ?しかも弟は遠慮の欠片もない発言をするし、怒って当然だ」
「で、でも、なんだか駆けつけた時から怒ってるみたいでした。小次郎さんのことで怒るのは分かるんですけど・・・あの宗太郎さんて人なら、事件が起きたこと自体には怒りなさそうな気がするんです。だって事件はあの場にいた誰のせいでもないんですから」
「・・・」
和彦は腕を組んだ。
言われてみれば確かに宗太郎は現場に駆けつけた時から怒っていたような気がしなくもない。あの時点で宗太郎が怒るとすれば、栄子を1人残した小杉に対してだろうが、小杉に怒っている様子はなかった。むしろ、宗太郎は落ち込む小杉を励ましていたくらいだ。
小杉以外に怒るとすれば、犯人をホテルに入れてしまった警備員に対してだろうか?
それともリアルに犯人に対して怒っていたのだろうか?
・・・寿々菜の言う通り、宗太郎の人柄を考えるとどっちも違う気がするな。
すると山崎が思い立ったように武上に訊ねた。
「ところで犬は?」
「犬?」
「血が犬の物なら、殺された犬がいるはずです」
「それもまだ見つかっていません。そもそも犬が殺されたのがフィッティングルーム内だと断定もできていません。どこか遠くで殺されて、犯人が血だけホテルに持ち込んだ可能性もあります」
寿々菜は顔をしかめた。先ほど武上が言っていた「まるで、バケツで血をかけたみたいだ」という言葉を思い出したのだ。
犯人は意図的にフィッティングルーム内に血をばら撒いたのだろう。
ひどい・・・
「なんて酷いことを」
寿々菜の気持ちを代弁したのは意外なことに犬猿の仲である山崎だった。しかも山崎の口調にははっきり怒気が含まれているのが分かる。
「法律上は犬は『物』ですが、人間と同じ命ある生き物です。それを殺して血を利用するなんて・・・万死に値します」
「山崎さん・・・犬がお好きなんですか?」
寿々菜が訊ねると山崎は大きく頷いた。
「5匹飼っています。もうすぐ6匹目が生まれるところです」
「そ、そうですか」
「武上さん!フィッティングルームから犬の毛は発見されましたか?」
「毛、ですか?」
いつになく強い山崎に武上も一歩退く。
「この時期、犬は毛が抜けやすいんです。うちの中もそれで大変で、毎日ブラッシングを・・・ってそんなことはいいんですが、フィッティングルームの中で犬を殺したりなんかしたら、絶対に毛が飛び散ってるはずです」
「分かりました。鑑識に確認しておきます」
「絶対に犯人を捕まえてください。法律が許しても私が許しませんので」
「は、はい」
寿々菜・和彦・武上は、鼻息荒く部屋を出て行く山崎を呆然と眺めていたのだった・・・。