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「この書類にサインすれば、誰も死にません」

作者: 新里泰久
掲載日:2026/05/02

 魔法は祈りではない。申請である。


 羊皮紙は使われない。代わりに薄い青色の紙片が配られる。湿度でわずかに波打つそれは、触れると指に粉のような冷たさを残す。魔力を帯びた繊維だと、入省時に説明された。誰も覚えていない説明。


 私はそれを、毎日三百枚ほど処理する。


 正式名は、やたら長い。

 ――エルグレイシア=アルヴァン=ノクス=レメディウス=第七級魔導事務官補佐。

 平民の出でありながら、この名を持つ理由は単純で、書類の上で軽く見られないための偽装だ。誰が付けたか。覚えていない。役に立つ、それで十分。


 周囲は私をシルヴァースと呼ぶ。銀のように冷たいからだと、誰かが言った。


 感情は、処理を遅らせる。


 それを私は一度、理解し損ねた。


 親友が死んだ日、私は承認欄を濡らした。涙で紙が歪み、魔法式が崩れた。小規模な結界が遅延し、魔物が三十七体、町に流れ込んだ。死者数は記録されている。名前は、三つほど覚えている。残りは番号だ。


 それ以降、私は泣かない。


 今日の案件は、赤い封が付いていた。

 「緊急氾濫抑制申請書」。提出元は北方境界局。魔物の群れが堤防を越えかけているらしい。紙の端が焦げている。現地で焼けたのだろう。匂いが残る。乾いた獣脂の匂い。


 必要魔力量の欄に、私の適正値がそのまま書き写されていた。雑だ。だが合理的。


 添付書類が一枚、足りない。


 住民移送完了証明。


 規定では、これがなければ結界強化は発動できない。人が残っている状態で結界を閉じれば、内側に魔物を閉じ込める危険がある。逆もある。外に弾かれた魔物が別の集落へ向かう。地図がないと判断できない。


 机の角で紙を揃える。爪の先で端をなぞると、ざらつきが返る。ここで止めるべきだ。差し戻し。再提出。正しい流れ。


 窓の外、遠くで鐘が鳴る。三度、短く。訓練ではない音。


 隣席の男が息を吸い、吐かない。「来てるな」とだけ言う。誰も動かない。動けない。規定がない。


 私は申請書の余白に目を落とす。走り書きがある。

 ――子どもが三人、まだ。


 字が崩れている。震え。焦り。指先に移る。


 規定。人命。順序。過去。湿った紙。焦げ。鐘。


 私の手は、勝手に動く。承認欄の上で止まる。止める。止まる。


 あの日、紙が歪んだ。遅延。侵入。三十七。


 今日、紙は乾いている。


 第三の道は、書式の外にある。


 私は新しい用紙を引き出す。青い紙。規定外の様式。誰も使わない余白。そこに、簡略式の結界式を手書きで起こす。必要魔力量を分割し、時間をずらす。完全な封鎖ではない。波のように押し返す。隙間ができる。だが、移送が未完でも、押し潰されはしない。


 前例はない。責任者欄が空白になる。


 私は自分の長い名前を書き込む。文字が多い。時間がかかる。インクがわずかに滲む。滲ませない。


 シルヴァース、と誰かが呼ぶ。止めろという意味ではない。確認でもない。音だけがある。


 承認欄に印を押す。乾いた音。軽い。重い。


 魔力を流す。指先から紙へ、紙から式へ。繊維が光る。粉の冷たさが熱に変わる。遠くの地面が、わずかに軋む気配。波。押し返す。戻る。繰り返す。


 鐘が止む。


 誰も何も言わない。机の上に、規定違反の紙が一枚、残る。


 後で報告書を書く。理由欄には何も書けない。書けば、誰かが再現する。再現されれば、制度になる。制度になれば、同じ穴が開く。


 私は空欄に、短く記す。


 ――暫定措置。


 それで十分だ。


 夕方、北方境界局から簡易報が届く。紙は焦げていない。

 被害、軽微。移送、完了。子ども三人、無事。


 数字が並ぶ。名前はない。


 私は次の書類を取る。青い紙。乾いている。ざらつき。一定。


 魔法は祈りではない。申請である。


 だが、申請の外側で、人が呼吸している音を、私はまだ聞き取れる。

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