「この書類にサインすれば、誰も死にません」
魔法は祈りではない。申請である。
羊皮紙は使われない。代わりに薄い青色の紙片が配られる。湿度でわずかに波打つそれは、触れると指に粉のような冷たさを残す。魔力を帯びた繊維だと、入省時に説明された。誰も覚えていない説明。
私はそれを、毎日三百枚ほど処理する。
正式名は、やたら長い。
――エルグレイシア=アルヴァン=ノクス=レメディウス=第七級魔導事務官補佐。
平民の出でありながら、この名を持つ理由は単純で、書類の上で軽く見られないための偽装だ。誰が付けたか。覚えていない。役に立つ、それで十分。
周囲は私をシルヴァースと呼ぶ。銀のように冷たいからだと、誰かが言った。
感情は、処理を遅らせる。
それを私は一度、理解し損ねた。
親友が死んだ日、私は承認欄を濡らした。涙で紙が歪み、魔法式が崩れた。小規模な結界が遅延し、魔物が三十七体、町に流れ込んだ。死者数は記録されている。名前は、三つほど覚えている。残りは番号だ。
それ以降、私は泣かない。
今日の案件は、赤い封が付いていた。
「緊急氾濫抑制申請書」。提出元は北方境界局。魔物の群れが堤防を越えかけているらしい。紙の端が焦げている。現地で焼けたのだろう。匂いが残る。乾いた獣脂の匂い。
必要魔力量の欄に、私の適正値がそのまま書き写されていた。雑だ。だが合理的。
添付書類が一枚、足りない。
住民移送完了証明。
規定では、これがなければ結界強化は発動できない。人が残っている状態で結界を閉じれば、内側に魔物を閉じ込める危険がある。逆もある。外に弾かれた魔物が別の集落へ向かう。地図がないと判断できない。
机の角で紙を揃える。爪の先で端をなぞると、ざらつきが返る。ここで止めるべきだ。差し戻し。再提出。正しい流れ。
窓の外、遠くで鐘が鳴る。三度、短く。訓練ではない音。
隣席の男が息を吸い、吐かない。「来てるな」とだけ言う。誰も動かない。動けない。規定がない。
私は申請書の余白に目を落とす。走り書きがある。
――子どもが三人、まだ。
字が崩れている。震え。焦り。指先に移る。
規定。人命。順序。過去。湿った紙。焦げ。鐘。
私の手は、勝手に動く。承認欄の上で止まる。止める。止まる。
あの日、紙が歪んだ。遅延。侵入。三十七。
今日、紙は乾いている。
第三の道は、書式の外にある。
私は新しい用紙を引き出す。青い紙。規定外の様式。誰も使わない余白。そこに、簡略式の結界式を手書きで起こす。必要魔力量を分割し、時間をずらす。完全な封鎖ではない。波のように押し返す。隙間ができる。だが、移送が未完でも、押し潰されはしない。
前例はない。責任者欄が空白になる。
私は自分の長い名前を書き込む。文字が多い。時間がかかる。インクがわずかに滲む。滲ませない。
シルヴァース、と誰かが呼ぶ。止めろという意味ではない。確認でもない。音だけがある。
承認欄に印を押す。乾いた音。軽い。重い。
魔力を流す。指先から紙へ、紙から式へ。繊維が光る。粉の冷たさが熱に変わる。遠くの地面が、わずかに軋む気配。波。押し返す。戻る。繰り返す。
鐘が止む。
誰も何も言わない。机の上に、規定違反の紙が一枚、残る。
後で報告書を書く。理由欄には何も書けない。書けば、誰かが再現する。再現されれば、制度になる。制度になれば、同じ穴が開く。
私は空欄に、短く記す。
――暫定措置。
それで十分だ。
夕方、北方境界局から簡易報が届く。紙は焦げていない。
被害、軽微。移送、完了。子ども三人、無事。
数字が並ぶ。名前はない。
私は次の書類を取る。青い紙。乾いている。ざらつき。一定。
魔法は祈りではない。申請である。
だが、申請の外側で、人が呼吸している音を、私はまだ聞き取れる。




