第九話 正しいかもしれないけれど
鳥が鳴きはじめた夜と朝の境目に、エレミアたちは岩の山肌に張り付くような家々が点在する村落へと辿り着いた。まだ家先の篝火は燃えており、同時に、すでに羊飼いが起き出して見張り番の牧羊犬たちの世話をしていた。
彼らは突然の訪問者であるエレミアたちへ特に注意を払うようなこともなく、まるで分かっていたことのように日常を続けている。
馬から下りて、ユリウス少年が両方の馬の手綱を持って先頭を歩きながら、エレミアへの疑問に答える。
「このあたりは、この国の辺境域に入ります。中央の権力が及ばず、在地零細領主たちが独自の支配の裁量を与えられている土地です。古くは独立した山岳民族や別の国から逃れてきた訳ありの人々、それに密貿易に関わる商人たちもこういう場所を重宝するので、爵位もないようなお飾りの領主からは半ば放置されているようなものですね。領主側は、上納金さえあれば容易く見逃してくれますから」
つまりはユリウス少年はそのグレーゾーンを利用する立場にあり、また熟知しているわけだ。王都住まいが長かったエレミアには想像もつかない世界だが、人間が生き延びるための知恵を集結させた結果生まれた場所は、存外牧歌的で、危険などとても見つけられそうにない。
木の柵で仕切られた道を進むと、集会所らしき円形の平屋が見えてきた。その入り口には、浅黒い肌に黒い短髪の青年が腕を組み、苛立つままにブーツの先端を木床に打ちつけて鳴らしている。
浅黒い肌は、隣国の民に多い。厳しい砂漠の住人は頑強で辛抱強く、大地が続くかぎりラクダやロバを率いて行商して回る体力も、異邦人に負けない知恵と勤勉さも持ち合わせているとエレミアは聞いていた。
その隣国の民が堂々と入ってきて、村落で一番目立つ場所にいた。白い一枚布でできたローブの前を開け、赤系の毛織物の服を着込み、足元の裾をぎゅっと絞ったパンツにかなり頑丈そうな牛皮のブーツを履いている。一目で隣国の民だと分かるが、服装はこの国との交流を持ったものだ。
青年は大きな目を見開いて、やってきたユリウス少年へと地団駄を踏んで叫ぶ。
「遅ぇぞ、ユリウス! 時間も守れねぇのか!」
「夜明けまでにはと言った」
「はあ〜? もう日の出すぎてるだろうが!」
「まだ太陽が地平線から離れていないから夜明けだ」
「違いますー! 太陽の頭が地平線から出たら夜明けですー!」
少年と青年は肌の色も年齢も服装も違うが、今が夜明けかどうかを言い争うくらいには仲がいいようだ。
エレミアはユリウス少年の手を借りて、馬から下りた。その間に、青年は集会所の中に声をかけ、出てきた浅黒い肌の大人たち三人が青年の指示で馬を引き、荷物を運んでいく。どうやら、青年は若いながらも自分より年上の大人にさえ命令を出せるリーダー役らしい。
その勢いに気後れするエレミアへ、ユリウス少年は軽く紹介する。
「彼はイシディヤ。仲間です」
「よろしく、お嬢様。いや、ご婦人か?」
「レディ・エレミアとお呼びしろ」
「はいはい、しっかしお若くて何よりだ。この先、未亡人になったって貰い手はいくらでもある」
イシディヤという青年は軽口を叩く。だが、エレミアにとっては聞き捨てならない言葉があった。
「未亡人? 私が、ですか? ユリウス、それは一体……?」
確かにエレミアは『カリシア子爵夫人』の肩書きを捨ててここまで逃げてきたが、そのカリシア子爵マークはまだあの土地にいるはずであり、若く健康そのもので死ぬ理由はない。むしろ、エレミアが行方不明や死亡扱いされる側だ。
ところが、ユリウス少年の計画では、そうではなかった。
「……カリシア子爵には死んでもらいます。すでに暗殺は終わっているでしょう」
ユリウス少年はエレミアへ目を合わせず、淡々と短い事後報告で済ませようとした。
咄嗟にエレミアが反応する前に、イシディヤが素早く会話に割って入る。
「これもあんたの行方をぼかすためだ。カリシア子爵は子爵夫人を殺して焼いた、その後使用人にそれを見咎められて惨殺、あまりの残虐さに駆けつけた警察や騎士たちはその場でカリシア子爵を殺害。そういう筋書きになっている」
思わず、エレミアは息を呑んだ。
エレミアを直接逃すだけでなく、そのために刺客を送り込んでマークや使用人をも殺害してしまうなど、ユリウス少年からは何も聞いていない。
(何てこと……私を逃すために、そこまで? 私が逃げなければ、マークも使用人たちも殺されずに済んだということ? そんな……)
今までマークに対して芽生えなかった憐憫や同情心が生まれると同時に、エレミアはこうも思う。
(そこまでしなければ、私はあそこから逃げられなかった、ということなの? 子爵夫人の行方不明くらいならともかく、殺人事件まで起こしてしまうのはリスクが高いでしょうに、彼らはそれをやり遂げたの? どうして、私なんかのために、そこまでしてくれるの……?)
その答えはとっくに得ている。ユリウス少年にとって、エレミアを助けることは偉大な父との約束だからだ。ヴィクトリアスというすべてを奪われた王子の意思を継ぎ、何を犠牲にしてでもエレミアを逃すと決めたのだ。
だとしてもやりすぎだ、そんなふうにエレミアは彼を責められる立場にはない。あのままでは、エレミアは失意のうちに死んでいただろう。邪魔者扱いされ、追い払われ、もしくは自殺を強要されたかもしれない。そうして、『子爵夫人』の後釜に——。
エレミアははたと、自分の後継になるかもしれないテニアのことを思い出す。ユリウス少年たちの言葉どおりなら、テニアが産んだ子にはもう父親がいないのではないか、と心配になってきたのだ。
「でも、それでは、テニアはどうなるのですか? マークの子を産んだばかりだというのに」
「ああ? そっちにもいたのか。じゃあ、ユリウス、そっちも殺しとくか」
「……ああ」
「決まりだな。手配しとくよ」
——え。
エレミアはその一声をこぼし、後悔する。知らなかったなら言わなければよかった、教えなければよかった。私のせいで、テニアとその子まで犠牲になるのではないか。
イシディヤの提案に、ユリウス少年は賛意を示していた。驚いたエレミアが、イシディヤへと止めに入る。
「待って、それはさすがに」
勢い余って伸ばした手首を、ユリウス少年に握られる。呆気なくエレミアは動けなくなり、ユリウス少年をきつく睨む。
だが、ユリウス少年とイシディヤは平然としていた。
「だめです、レディ。止めてはいけない」
「でも!」
「後顧の憂いを断たねばなりません」
エレミアだって、その意味くらい分かる。
分かるが、人としてやってはならないのだ。他人の親を殺し、あまつさえその妻と生まれたばかりの子までも殺すというのか?
エレミア一人が自由になるために、そこまで犠牲を積み増さなければならないのだろうか?
その答えは、エレミアの裡ではとっくに出ている——それ以外に、方法はあるのか?
カリシア子爵マークとテニア、そして生まれた子どもがいなくなれば、最初に殺されたとされるエレミアのことなどどうでもよくなる。まさかとっくに逃げて謀った実行犯たちとともにいる、などと思われることはないだろう。焼死体からエレミアではないことを証明するのは至難の業だろうし、ユリウス少年やイシディヤにとってはその手際の良さからこれが初めての仕事でもないはずだ。
第一、マークの心が妻のエレミアではなくテニアへ向き、さらには子どもまで儲けたという出来事は紛れもなく事実であり、どうあっても正式な夫婦ではない二人の関係は不貞や密通の類となる。その醜聞を、貴族や市民たちは面白おかしく語りたがるだろうが、エレミアが責められる要素はほぼない。エレミア自身、カリシア子爵家に嫁いでからは十分なほど夫人としての役割を果たしてきた自負があるからだ。そのくらいには潔白である自信がある。
これらの事実が揃っていたとしても——それでも、エレミアは、ユリウス少年とイシディヤの決定を認めるわけにはいかない。
だとしても、その反対に意味はないのだ。
ユリウス少年は、掴んだ手を離さずに、エレミアへ努めて優しく説く。
「落ち着いて、レディ。あなたは優しい。たとえ自分の夫を奪ったのだとしても、その女と子どもへ向ける憐憫や温情は、人として間違ってはいないのです。だから、あなたが罪悪感を覚えなくていいのです」
その上で、とイシディヤが畳み掛ける。
「その罪を負うべきなのは、実行する俺らやユリウスだ。レディ、あんたは何もしていないし、何もできない。責任を負えないやつの罪を問うなんて、ありえねぇ話さ」
言い放ったのち、イシディヤは結論は出たとばかりにどこかへ去っていった。
今、彼を止めれば、二人の命は助かるだろうか。否、そんなことはない。なぜならば、エレミアには力がない。何もしていない、差し出された手を取ることしかできないような人間だ。だから、罪悪感さえも持つことが許されない。
「責任を、負えないのだから」
無力感に苛まれ、エレミアはつぶやく。赤茶色の目は焦点が定まらず、だんだんと薄く明けていく空を虚しく眺めているだけだ。
「そう、ね。振り回されてばかりで、ずっと私は何もしていない。何もできず、ただ黙っているばかりだったもの……そんな人間が、誰を、何を非難できるというの」
ユリウス少年は黙ったまま、エレミアのそばにいる。下手に慰めの言葉をかけられないのか、何度か口を開こうとしたが、結局言葉にしなかった。
まもなくユリウス少年に手を引かれ、エレミアは集会所に用意された簡素なベッドを与えられた。「お疲れでしょう。ここは安全ですから、十分に休んでください」と言われ、ようやく疲れ切った体を横たえる。
逃避行の疲れからか、エレミアはすぐに眠りに落ちた。
——夢に逃れ、何もかもを忘れたかったのかもしれなかった。