第七話 逃避行
ユリウス少年の用意は周到だった。
カリシア子爵家屋敷の庭の生垣を抜けた先にある林に、荷物をくくりつけ装備の整った二頭の馬を繋いでいた。それも馬の毛色が揃って青鹿毛だったため、エレミアは馬に近づいて呼吸音が聞こえても闇の中で姿が見えないことに心底驚愕したものだ。
しかし、傍に来てみると大小二頭の馬は従順で大人しく、ユリウス少年だけでなくエレミアへもお辞儀の仕草をして、何とも愛らしい。そのおかげで、エレミアが無意識のうちにまとっていた緊張感はほぐれ、心の中でホッと一息ついていた。
そのままユリウス少年の助けを借り、エレミアは小さいほうの馬——正確にはもう一頭がユリウス少年の背丈をゆうに超えるほど大きいだけで、この馬は普通——の鞍に何とか跨ることができた。鞍の前部には騎乗者が掴まるための革紐が結ばれていて、手綱はユリウス少年がもう一頭に乗りながら扱うらしい。
エレミアは馬の背に乗って、恐々革紐と鞍の取手にしがみつく。鐙を両足で踏めば少しは安定感があるが、自分の身長以上の高さもあってやはり怖いものは怖い。さすがに乗馬服は持っていないので、クッションがわりにドレスの裾を太ももに巻きつけて、どうにかしのぐしかない。
最初は歩く速さで、並走しながら少し前を行くユリウス少年が二頭の手綱を操っていく。慣れた手つきで、林を抜けるころには馬たちは駆け足くらいの速さになっていた。カリシア子爵家屋敷から十分離れたところで、見通しのいい街道を東へと向けて走りだすと、肌寒い夜風がエレミアの頬を叩くようになった。
周囲の家畜の放牧地である草原は、しんと静かな夜だった。馬の蹄鉄の音が土道に沈み、きっと背後にはついぞ最後まで慣れなかったカリシア子爵領があるだろうが——エレミアは振り返らなかった。
しばらく無言のままの二人を乗せて、大小二頭の馬は走る。やがて草原も終わり、まばらな林が鬱蒼とした森へと変わる。月夜とはいえ、暗い森に入るのは危険極まりないが、ユリウス少年は逡巡する素振りすらなく、馬を突っ走らせる。まるで、道は続いているのだから、この方向へ進めば何一つ心配はいらない、とばかりだ。
少年らしからぬ洗練された馬術もそうだが、ユリウス少年の跨る巨馬も至極落ち着き払っていて頼り甲斐がある。そういう意味では、エレミアはまったく心配も恐怖もなく、ただついていけばいいだけだった。それがユリウス少年に気遣われてのことと分かってはいたが、少しだけ後ろめたい。とはいえ、そんな気持ちはグッと呑み込んでおく。今、ユリウス少年をわずらわせたくはなかった。
移り変わる風景は単調な暗闇と頭上近くにかかりはじめた満月、限られた視野でも続いていく道となって、少し経ったころ。
森を横断するように、橋のかかった小川が現れた。やっと馬たちの速度は橋の手前でひどく緩やかになり、ユリウス少年はエレミアへと振り返って笑ってみせた。
「ここまで来れば、早々追いつかれないでしょう。大丈夫ですか?」
「ええ、なんとか、乗馬って、初めてで」
「もう少し道なりに進んだところまで行ってから、一旦休憩しましょう。これからについて、早くお伝えしないといけません」
それまで下りずに、と一言付け足して、ユリウス少年は馬をゆっくり進ませていく。大小の馬たちは、ユリウス少年の手綱越しの命令にまったく逆らうこともそっぽを向くこともない。
エレミアは、おずおずとユリウス少年へ話しかける。
「お上手ね、すごく様になっているわ」
「僕なんてまだまだです。この馬は父から譲り受けたもので、とても賢いから僕が乗っても言うことを聞いてくれるのです」
「お父上が……八年前、ヴィクトリアス殿下が東方へ追放されたときも一緒だったのかしら」
すると、ユリウス少年は馬上ではっきりと頷いた。
「ええ、そう聞いています。そのころは、僕はまだ物心つく前でしたから憶えていませんが」
橋を渡り終えた馬たちは、また調子を取り戻して駈歩に戻っていく。逃避行だから灯りは点けられないのか、それともユリウス少年には暗闇の森の道がはっきりと見えているのか、エレミアには分からない。
幸い、さほど時間もかからず、開けた場所に出た。カリシア子爵領とは雰囲気の異なる、傾斜のある丘陵地帯で、人家は近くには見当たらない。山肌の白さに月明かりが照らされ、手元が見えるほど随分と明るくなっていた。
またユリウス少年の手を借りて馬を下り、エレミアはふらふらと道の端に座り込んだ。エレミアが思った以上に、乗馬は足腰に来る。ましてや普段は運動らしい運動をほとんどしない『子爵夫人』だったせいもあって、当分立てそうにない。
ユリウス少年は荷物から水筒を持ってきて、エレミアへと差し出す。そのままエレミアの前に片膝をつき、こう言った。
「満月が昇り切るまで、ここで一休みです。この先の村に僕の仲間がいます、そこからは馬車で東の国境領を目指していく予定です」
言われてみれば、エレミアが見上げた満月は、もうほとんど天頂にある。真夜中の逃避行はすでに三時間を超え、不慣れなエレミアには限界が近かったのだ。
正面から見るユリウス少年の顔を、エレミアはじっと観察してみた。
灰色かかった金髪と、青灰色の瞳。将来はきっとしっかりとした顔立ちの、誰もが放っておかない立派な青年になるだろう。そして、その予想図とよく似た人物を、エレミアはやっと明瞭に思い出した。
「あなたの顔立ち、ずっと見ていたら確かにヴィクトリアス殿下の面影があると思ったの。テトラシウス殿下とアルウィウス殿下は、王妃様によく似て中性的で美しくて赤銅色の髪をしていたわ。ヴィクトリアス殿下はもっと精悍な方で、国王陛下の若いころの肖像画にそっくりだったから」
ユリウス少年は一瞬、驚いた顔を見せた。そして、口にしたあと、エレミアは後悔した。
(あ、この子はその方々との思い出はないのね。物心つく前に、追放の憂き目に……お父上のヴィクトリアス殿下なら顔を知っているだろうけれど、その他は……)
エレミアは不器用に、話題を変える。
「ええと、その、あの日以降、ヴィクトリアス殿下とあなたたちに何があったか、聞かせてもらってもいいかしら?」
「分かりました。では、僕が知るかぎりのことですが」
そう断ってから、ユリウス少年は穏やかに語りはじめる。




