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第三話 かつての王妃は

 しばらくして、エレミアはやっと重い腰を上げた。この屋敷の人間は、誰一人としてエレミアを心配して来ることはない。後ろ髪引かれるような思い出は何一つなく、むしろ自分がいなくなったほうがカリシア子爵家にとって好都合のような気さえする。


(そうしたほうがいい。きっとそう。下手に私が死んでカリシア子爵家と実家の諍いが起きるよりも、失踪したほうがまだどちらも体裁を保てるかもしれないくらい。それなら、いっそ……結果がどうなろうと、踏み出してみるべきだわ)


 エレミアはユリウス少年を信じきっているわけではなかったが、他に選択肢がないのだ。このままカリシア子爵夫人として生きるにはあまりにも誰かにとって不都合が多すぎる、マークもテニアもそれを望むことはないだろう。もしテニアの子どもが大きくなって、マークが嫡男として認知してこの屋敷に連れてくることになったなら、エレミアは誰にとっても邪魔者でしかない。そこまで侮辱に晒されつづけてでもここに居座れるほど、エレミアは厚顔無恥ではなかった。


 エレミアは自分がここからいなくなったほうがいい存在だと、思い知った。ならば、何を恐れる必要があるのだろう。


 吹っ切れたエレミアは、つらい現実によろめきながらも、何とか壁を伝って自室へと帰って荷造りを始めた。一階の端、日当たりのいい角部屋に追いやられたように住み着いていた自室は、きっとユリウス少年を待つには都合がいいはずだ。


 エレミアは使用人にはしばらく部屋へ入ってこないように、と言いつけ、夕食も断っておいた。これで誰もエレミアを気にすることはないだろう。どうせ泣き腫らして拗ねているだけだ、とでも勝手に解釈してくれる。


 少し古びているものの、エレミアは自室のアネモネの柄の淡い色合いの壁紙は気に入っていた。先代子爵夫人の趣味だと聞いていたが、マークを産んだ際に若くして亡くなったそうだ。部屋を丸ごと、調度品も彼女の使っていたものをそのままに、エレミアへと与えられたのだ。


 天蓋付きベッドも、植物模様の額に入った姿見の鏡も、まだ新しいまま遺されてしまったドレスや寝巻きたちも、エレミアは結婚してここに引っ越して、そのまま使っていた。それ以外のものは与えられたことなどなく、マークがエレミアへと贈ったものは、形式的な金の結婚指輪だけだ。


 エレミアは左手薬指の金の指輪を、そっと外して、棚の引き出しに仕舞った。持ってきたアクセサリは母から譲られたカメオのネックレスとブローチのみで、棚に残っている宝石や金銀のアクセサリはエレミアのものではない。かつて、愛する夫から贈られたものを大切にここへ仕舞っていた子爵夫人がいた、彼女のものだった。


 エレミアは彼女の持ち物だった一番大きな木製トランクだけ頂戴することにして、羊毛のコートや普段着のデイドレス、下着を詰め込む。化粧品の類は入れなかった。重くなるし、どうせ使わない。誰も自分が綺麗になったところで振り向いてくれない、と諦めていた。


 そうして、あっという間に荷造りは終わる。トランク一つ、たったそれだけだ。


「たった、これだけなのね」


 薄暗くなった室内で、トランクの前に座り込んだエレミアはつぶやく。


「私の持ち物、必要なものは、トランク一個に収まってしまうなんて。子爵夫人ではなくなる私には、もう必要ないものね……」


 エレミアは、しばし呆然としていた。ユリウス少年が本当にやってくるか、信じていないわけではないが、現実味がまだなかった。


 いや、エレミアのこれまでの人生で、現実味があったことなどほとんどない。


 そもそも——王妃だった伯母のところに通っていた子どものころ、幸せはずっと続くのだと思い込んでいた。


 エレミアの伯母プロティアは、国王に見染められて王妃の座に迎えられた。もちろん正妃であり、結婚してから次々と三人の男子に恵まれた。国王との仲も睦まじく、誰も引き離せないほどだったという。


 その伯母プロティアは本来素朴な人で、幼いエレミアが実家アルカディア伯爵家から摘んだばかりの花を両手に抱えて持っていくと、大層喜んでくれたものだ。


「まあ、こんなにたくさん。ありがとう、エレミア」

「ふふっ、伯母様はお花が好きだって聞いていたから、がんばったの。見て、ピンクの薔薇よ。これはお父様が南の土地から買い付けたものでね、薔薇水やジャムにもなるんだって。いい香りでしょう?」

「本当、素晴らしいわ。アルカディア伯爵家のお庭に行ってみたいくらい」


 もちろん、実際に伯母プロティアがエレミアの実家アルカディア伯爵家へ赴くことはできなかった。警備上の問題だけでなく、これ以上王妃側の縁戚に権力を与えないようにする政治的思惑もあったからだ。


 そこで、幼いエレミアが一人で抱えられるほどの花を持って訪ねることが慣例となって、エレミアはしょっちゅう王城に出入りしていた。十歳にも満たない末娘の貴族令嬢一人くらいならば、と見逃されていたのだ。


 赤銅色の髪の美しい王妃と、三人の王子が集まって、エレミアとテーブルを囲んでお茶会をすることもよくあった。第一王子ヴィクトリアス、第二王子テトラシウス、第三王子アルウィウス、特に第一王子にはエレミアはよく遊んでもらった憶えがある。すでに彼には遠く領地に住まう息子と娘がおり、子どもが可愛くてしょうがなかったのだろう。


「領地にいる二人がこちらに来たら、エレミアがお姉さんになってくれるかい?」


 兄にも等しい第一王子ヴィクトリアスからそんなふうに頼まれて、エレミアは快諾した。


「ええ、ヴィー兄様! 私、お姉さんになるわ。末っ子だから、お姉さんになるのは初めて!」


 その話を聞いていた王妃や弟王子たちも満面の笑みを浮かべ、その光景を見守っていたものだ。


 だが、そんな穏やかな日々は、唐突に終わりを迎えた。

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