第二十一話 国王アルトリウス
ユリウスがヤルンヴィト辺境伯屋敷から飛び出したころと同時期。
ベルルーニ王国王都では、エレミアの父であるアルカディア伯爵が王命により王城へ召し出されていた。
「こちらへ、アルカディア伯爵」
先代国王の時代から、長年侍従長を務めるカタリエ宮中伯が、久々の王城に戸惑うアルカディア伯爵を連れていく。
王城は、王妃たちがいたころと何も変わらない。変わったのは、人間のほうだ。王城の廊下を歩く者たちは、皆一様に黙々と、うつむいている。誰とも目を合わせず、騒がしくせず、淡々と求められる仕事だけをこなすように——おそらくは、アルトリウス国王の指示だろう。少し気難しいところのある彼は、喧騒を嫌う。穏やかで寡黙なときもあれば、一切の雑音を許さぬ神経質なときもあり、そのあたり彼の性格を知悉する人間でなくては側付きは務まらない。
アルカディア伯爵は、しんと静まり返り、足音だけが虚しく響く廊下に一抹の寂しさを覚えた。約八年前、職務を解かれて王城の出入りの必要がなくなってからというもの、領地を持たない貴族であるアルカディア伯爵は次々と家族を失い、最後に残った娘を嫁に出すまでひたすらに商売に専念した。そうでもしなければ、いつ誰に目をつけられて咎められてもおかしくないほどに、アルカディア伯爵家は亡き王妃たちと親しかったからだ。
そうやってアルカディア商会が成長しても、目立つことはしていない。地味な運送業や零細規模の商売、主に貴族とは関わらないような低廉な金属系日用品を取り扱うばかりで、大口取引は意図的に避けてきた。伯爵の爵位には見合わない生業と生活を侮蔑されても、もしいつエレミアが出戻ってもいいように金を蓄えておかなければならなかったからだ。テニアの件があってから、アルカディア伯爵はますますその思いを強くしていたが——。
しかし、王都で地味な商売をしているせいか、アルカディア伯爵は世間の噂にはとんと疎かった。ましてや王都は出入りが厳しくなっているご時世ということも重なり、王都の外で何が起きているか、アルカディア伯爵はほとんど知らなかったのだ。
社交辞令の会話さえも始めることはためらわれたが、前を歩くカタリエ宮中伯から話しかけられてようやくアルカディア伯爵は安堵した。
「突然の呼び出しに応じてもらい、感謝する」
「とんでもない。して、今更ながら陛下はこの老骨に何用でしょう? 何らかの働きができるとも思えませんが」
「それは直接お伺いするほかあるまい。私とてただ貴殿を呼ぶことしか命じられておらぬゆえ」
「左様ですか……」
アルカディア伯爵の胸に不安が渦巻く。現国王に目をつけられるような行動は慎んできたはずだが、一体全体何用なのか。昔はアルカディア伯爵も王城の書庫で司書長をしていたものの閑職であったし、かつての王妃の親族ということを除けば、何ら王城との接点はないに等しい身だ。
その疑問を抱いたまま、あっさりと国王の執政室に辿り着いてしまったアルカディア伯爵は、仕方なく腹をくくった。
「失礼、アルカディア伯爵の入室許可をいただきたく」
カタリエ宮中伯の呼びかけに応じ、執政室の扉は開かれる。予定されていた訪問だからだろうか、中にいた秘書官たち三人が出てきて、アルカディア伯爵へ入室を促す。
ところが、入室したのはアルカディア伯爵一人であり、八年前と変わらぬ国王執政室には、灰色髪の国王アルトリウスが立っているだけだった。
迎え入れる、というわけではないらしく、その顔は険しい。実兄である先代国王から精悍さと覇気を取り除き、厳格さと冷酷さを詰めたような五十路の男性は、アルカディア伯爵へ明らかに敵意を含んだ眼差しを向けている。
アルカディア伯爵は内心怯えつつも、お決まりの礼儀に従って頭を下げ、お決まりの挨拶を述べる。
「陛下におかれましては、ご機嫌うるわしく」
「何が目的だ?」
「え、は?」
アルカディア伯爵はとぼけたつもりなどない。しかし、アルトリウスはさらに険しさを増した形相で迫り、アルカディア伯爵の礼服の胸元を老体に似合わぬ勢いで掴み上げた。
「お前の娘は、何が目的なのだ。俺へ復讐でも企んでいるのか?」
「お、お待ちを! 何をおっしゃっておられるか、私にはさっぱり」
「エレミアだッ! あの小娘、当てつけとばかりに貴族たちを懐柔しおってからに、忌々しい!」
若いころは父や兄とともに戦場を駆け巡っていただけあって、アルトリウスは未だ筋骨たくましい。すっかり持ち上げられたアルカディア伯爵はというと、アルトリウスの怒りの言葉の矛先が自分の娘に向かっている意味が分からない。
なぜエレミアに——もう死んだ娘に、国王陛下は猛々しく怒りを露わにするのだろう。それも、今も生きているかのように、と。
「……陛下、エレミアは、三ヶ月前に死にました。夫に殺され、その夫も火に巻かれて死んだと聞いております。遺体さえも区別がつかなかったそうで、未だに私の手元に帰ってきておりません」
首を締め上げられつつ、苦しい息の中でも懸命にアルカディア伯爵は釈明する。
アルトリウスは、何かがおかしいと勘付いたのだろう。すぐにアルカディア伯爵を床へ下ろし、興奮を冷まそうと大きく息を吸う。
「すまぬ。興奮しすぎた」
「いえ、お気遣いなく。私はずっと、王都の自前の商会を頼りに細々と暮らす身です。世間の耳目に晒されぬよう隠れて暮らすばかりで、ろくに巷間の噂を耳にしておりません。そのような人間は、大変心苦しくも何のお役にも立てぬかと」
「そうか……」
とはいえ、まるでエレミアが生きて、しかも何やら謀略を働いているかのようにアルトリウスが捉えている異常さを、アルカディア伯爵とて奇妙に思わないわけではない。
だが、アルトリウスに限っては、根拠のない妄想や不確定な情報でここまで感情を露わにする人物ではない、とアルカディア伯爵はよく知っていた。先代国王がいた時分、アルトリウスは王の補佐、諫言の忠臣として活躍していたのだ。王弟だからと傲慢になることもなく、華美を嫌い、節制を尊ぶ。元は前線で活躍していた高潔な武人でもあるアルトリウスだからこそ、多少失政はあっても、今まで王都の貴族たちはさほど不満を漏らさなかった。
それが、本当に一体何があったのか。己のあずかり知らぬところで、何かが起きている。アルカディア伯爵の意識が、商人ではなくかつての王城官吏だった貴族らしく疑い深くなりかける。
その一方で、アルトリウスは素直に謝罪した。国王として早々頭を下げることはあってはならないが、今回ばかりは——『夫に惨殺された娘の父親』を前に——口が過ぎたと思っているのだろう。
「悪かった。お前は関わっていないようだな。ふぅ……今更、亡霊が現れるとは思ってもみなかったのでな」
「亡霊ですか。あまり縁起のいい話ではありませんな」
「そうだ。しかも『赤銅色の髪の貴婦人』ともなれば」
赤銅色の髪。
その言葉を聞き、アルカディア伯爵の脳裏に蘇ったのは、美しかった妻と五人の娘たちだ。皆揃って赤銅色の髪を自慢にしていて、仲良くお互いに髪の手入れをしていた団欒のときを思い出す。父親としては仲間外れだったが、その光景を見ているだけで幸せを噛み締めたものだった。
ただ、今となってはもう、誰もいない。赤銅色の髪は、王都から消え去っている。
アルカディア伯爵は、慌てて陰気くさい雰囲気を醸すまいと、顔を引き締めた。今でも気を抜くとすぐに悲しみで心が溢れ返りそうになるが、仕事に没頭することで何とか忘れられている。
アルトリウスは罪悪感からか目を逸らし、アルカディア伯爵へ退室を命じる。
「もういい、下がってよい、アルカディア伯爵」
「はっ、失礼いたします」
早くもなく、遅くもなく、アルカディア伯爵は姿勢を正して国王執政室から出た。
ちょうど扉が閉まるころ、外で待っていたカタリエ宮中伯が出迎えてくれた。
「もう終わったのか?」
「ええ。では、私はこれにて」
「ああ、ちょっと待ってくれ。こちらへ」
「何でしょう?」
そのまま近くの空き部屋に連れていかれ、何やら厄介ごとの気配がしていたが、アルカディア伯爵も逃げるわけにはいかない。
案の定、カタリエ宮中伯は声のトーンを落とせるだけ落とし、アルカディア伯爵の腕を掴んで、とんでもないことを口にした。
「先王、クロヴィウス陛下の話し相手になってくれぬか、伯爵。貴殿ならば、間者の心配もない。頼む」




