第二十話 貴婦人は微笑む その2
ふとエレミアが目をやると、グレンフツ伯爵は面白いほどに唖然としていた。そんなにもこの嘘の話で驚き、心を動かしてくれると、エレミアも複雑な気持ちになる。
「その折、ヤルンヴィト辺境伯には偶然保護していただき、その恩をお返しするためにこうして辺境伯の代わりに働いている、というわけですわ。もちろん、それ以外にも理由はありますけれど……」
「ああ、噂の、ヴィクトリアス殿下とその一族がこの国に帰ってくる、という? もし本当であれば、実に喜ばしい。今の国王陛下は何かと厳しすぎる、何より倹約家すぎて、おっと」
エレミアはにっこり笑って、何も答えなかった。逆に、グレンフツ伯爵は国王への批判という己の失言を誤魔化すため、大袈裟に笑ってみせている。
笑って誤魔化して、明言もせず、ただの噂を口にするだけ。何と貴族的なのだろう。エレミアは自分の言動に辟易しながらも、止めることはない。
「では、グレンフツ伯爵閣下、私はこれで。近隣の領から急ぎ来てほしいと催促が来ておりますの」
「おお、それは大変だ。早く行って差し上げねば」
「ヤルンヴィト辺境伯よりお借りした優秀な事務官を残しておきますわ。あとのことは彼と調整を」
エレミアとグレンフツ伯爵は互いに会釈を交わし、別れた。エレミアの手元にいる文官や騎士、兵士といった武官は、この場にいる人数だけでも二十人は超えている。それだけの数がいれば、国内であればなかなか自由に動けるのだ。ヤルンヴィト辺境伯が選抜した精鋭だけあって彼らは有能で、不慣れなエレミアがいちいち指図せずとも導いてくれる。
同時に、彼らはエレミアを警戒していた。勝手なことをしないか、ヤルンヴィト辺境伯から見張るよう言い付けられているのだろう。
会談の終わりを察知して、さっそく事務官たちがエレミアのもとへやってきた。エレミアはグレンフツ伯爵領に残す人員と穀物輸送の手配を頼み、少し休むと言い残して自分用のテントに入った。さすがに淑女のプライベートスペースにまで入り込んでくることはなく——刃物や縄になりうるものは取り去られているが——そこでだけは誰の目にも触れず、エレミアは折りたたみ式の椅子に座り込んで大きな溜め息を吐けた。
灯したランプの小さな炎を見つめ、足元に注意深く置く。息を深く吸い込んで、心を落ち着けていたそのときだった。
招かれざる客は来る。テントの入り口に誰かが立っている影が映っていた。見張りの兵はいないため、来客だろうと推測できるが、エレミアは即座に緊張の糸を張る。
「アルカディア伯爵家のエレミア様、ですね?」
そう問いかけてきた冷たい女の声を、エレミアは聞いたことがなかった。
「私はすでにあの伯爵家から出た身です。今の私は、ただのエレミアとご承知おきを」
「かしこまりました。陛下より言伝を承っております……『赤銅色の髪の貴婦人』へ、『これ以上、王都に近づくな』、とのことです」
今のベルルーニ王国内で、『陛下』の敬称を添えるに値する人物はただ一人である。
エレミアは、咄嗟にとぼけた。
「それは、どういう意味でしょうか?」
「そのままの意味です。陛下はあなたの行動を非常にいぶかしんでおられます。出自や身分はもちろん、なぜ遠きヤルンヴィト辺境伯と繋がりがあるのか、慈善活動にしてはあまりにも分を越えた振る舞いである、と」
「お言葉ですが、食べ物が足りないという噂だけで、民は不安になります。そこで本当にお金や食べ物がなくなっていけば、恐怖に駆られて領兵や騎兵隊にさえも立ち向かいはじめるのです。彼らを無駄死にさせないためにも、微力ながら私は駆け回っているだけですわ」
「恩を売るように、ですか?」
「そのような思惑はございません。無駄な血を流すべきではない、ただそれだけです」
「承知しました。陛下にはそのようにお伝えしましょう。ですが、その主張を鵜呑みにする人間はそう多くはないでしょう」
「ええ、実際に危機に瀕していない人々には、納得できないかと。私は王命に従い、これ以上王都には近づきません。その旨、どうぞよくお伝えくださいまし」
毅然と対処できた、そのつもりだ。
テント前の人影が失せても、エレミアはしばし、背筋を伸ばしたまま椅子に座っていた。本当にただ伝言を持ってきただけのようで、冷たい声の主はテント内に入ってくることはなかった。
そうしてエレミアがまだ警戒を緩めていないうちに、今度は聞き覚えのある声が、テント越しの背後から投げかけられた。
「いやはや、あの頼りないレディが立派になったもんだ」
「イシディヤさん!?」
「静かに。俺がここにいるだけでもけっこうやべぇんだからさ」
「あ、ごめんなさい……」
思わず声を上げてしまったことを反省して、エレミアは小さく謝る。
もはや聞き慣れたイシディヤの声は間違わない。ヤルンヴィト辺境伯の息のかかった文官武官だけでなく、ユリウスの頼みを受けてイシディヤもエレミアへ秘密裏に協力してくれていた。
そのイシディヤは、毒舌鋭く先ほどの伝言を分析する。
「あの王様、あんたを王都接近さえ許さねぇなんてな。それだけ余裕がないのか、はたまた自分が殺した兄嫁に似た女を見たくないだけなのか、どちらにせよ上手く噂を流しておこうかね。あんたの存在を、王様は疎ましく思っている、ってね」
イシディヤもまた、エレミアが頼んでもいないことまで進んでやってしまう。
エレミアは声をひそめ、控えめに制止をかけようとした。
「あの、あまりやりすぎないようにお願いします」
「何でだ?」
「わがままで申し訳ないのですけど、一方的に敵視されるのは、精神的に厳しいものがあります。昔のことを思い出してしまって」
消え入るように、その先の言葉はエレミアの口から出てこなくなった。
あの日以来、貴族たちから侮蔑の言葉を浴びせられ、無礼な扱いを受け、しまいには夫であるマークからも冷遇され、エレミアはすっかり縮こまってしまっていた。今でこそ虚勢でも胸を張っていられるが、昔のことを思い出すたび、心が苦しくなる。
とはいえ、それも越えなければいけない壁なのかもしれない。少なくとも、協力者であるイシディヤはそう考えているようだった。
「はっ、気にするなよ。というか、本気で気にしてたらあんたはここにいねぇはずだ。覚悟しただろ? あんたは反乱の片棒を担ぐんだ、って」
「それはそうですけども」
「もう少しだけ気ぃ張ってろよ。あんたの敬愛する亡き王妃様やユリウスの親父たちにひでぇことしやがったやつらに、がっつり復讐したいんだろ? そうそう、ユリウスももうこっちの国に戻ってきてる頃合いだ。あれであんたのことを心配しまくっててな、本当まだまだお子ちゃまだよなぁ」
軽い口調でイシディヤは話をまくしたて、一方的に話を終わらせる。
「じゃ、また来る。身の回りにはよーく気をつけろよ」
「はい。ありがとうございます」
まもなく、イシディヤの気配は消え去った。エレミアへ姿を見せず、情報を渡すだけ渡して、次の仕事場へ向かったのだろう。
エレミアは自分の両頬をぐいっと持ち上げた。気付かぬうちに、あのユリウスの名を聞いて緩んでいたのだ。
(ユリウス、帰ってきたのね。もう一度会いたいとは思うけれど……会わないほうがお互い都合がいいでしょうし、仕方ないわ)
ここに至るまでには、エレミアにはユリウスとの婚約という道もあった。ヤルンヴィト辺境伯の養女になって、大人しく反乱の終わりを待っていてもよかった。
しかし、もうその道はエレミア自身の手で閉ざしたのだ。
エレミアは両頬を軽く叩き、固く瞑った目を一気に開け、なけなしの勇気を振り絞って弱い心を補強する。
(私はここで、注目を集めつづける。そうして私のことを無視できなくなったアルトリウス国王陛下が痺れを切らしたところで、反乱の大義を布告する。そのとき私は殺されているかもしれないものね、ヤルンヴィト辺境伯かユリウスが私の死を上手く使ってくれるといいけれど)
すでに、エレミアは己の末路を覚悟していた。
『赤銅色の髪の貴婦人』は、きっとアルトリウス国王にとってもっとも見たくないものだ。これ以上派手に立ち回れば、必ず命を落とすだろう。それが国王の手先によるものか、はたまた違う誰かなのかはどうでもいい。
(私の死を、存分に利用して、利用して、骨の髄まで貪るように使い切ってしまってちょうだい。そうでもしなければ、マークを、テニアを、名も知らぬ赤子を殺した意味がなくなってしまう。私は、盛大に死を利用されて、ヴィクトリアス殿下やユリウスのための大義の礎になれればそれでいい。そうするしか、もう道はないの)
それは償いでも何でもなく、自己満足であるということも思い知った上で、そうするしかないのだと——エレミアは思う。
生きる気力をなくしていても、目的があれば脇目も振らず動ける。
それが、かつて敬愛した人々のため、初めて好きになりそうだった少年のためなら、尚更だった。




