第二話 優しい少年
泣き疲れたエレミアは、ようやく両袖から顔を離し、背筋を伸ばした。
少しはすっきりした——そう思ってみる。実際には何一つ解決していないし、エレミアの心は何一つ晴れていない。これからも死ぬまであの侮辱や嘲りが続くのだと思うと、また易々と涙が溢れそうになる。
だが、ここで泣き腫らした顔をしていても、マークも使用人も同情してくれないだろう。そして、誰もエレミアの顔を見て心配などしてくれない。カリシア子爵邸への来客など皆無に等しく、まれに郵便配達人が来る程度のものだ。そのくらい、ここにカリシア子爵マークはろくに滞在していない、ということが周知の事実となっていた。
エレミアのまだぼんやりとした視界が、ふと、誰かの気配を感じ取った。使用人が戻ってきたのかと思い、エレミアは今更ではあるがカリシア子爵夫人としての佇まいに戻らなければ、と立ち上がろうとする。
ところが、その気配は思ったよりも、幼かった。
「泣かないで、レディ・エレミア」
聞いたこともない、知らない子どもの声に慰められ、エレミアは驚いて指で目を擦る。
子どもの声なんて随分と耳にしていなかったエレミアは、幻聴ではないかとさえ思った。
だが、視界が鮮明になるにつれ、エレミアは予想だにしていなかった存在を目の当たりにすることになる。
「あなたは……?」
呆然と見つめるエレミアへと、声の主——十歳を超えたくらいの身なりのいい少年が、優雅に右手を胸の前に置き、会釈をしつつ、片膝を曲げてエレミアへと左手を差し出した。
その動作は常日頃から自然と流れるように滑らかに行われ、何よりもエレミアに対する敬意に満ち溢れた貴族式の最大級の敬礼だった。
主に女性への敬愛の意味を込めた、完璧なマナー。見ているエレミアさえも惚れ惚れとしてしまうほど、少年の将来有望な整った顔立ちや立派な毛皮付きのコートなどの身なりも含めて、彼がやんごとない身分の御曹司であることが窺える。
まだあどけなさを残した少年は、エレミアへ微笑んでみせた。
「初めまして、レディ。突然の訪問、どうかお許しを。僕のことは『ユリウス』とお呼びください」
少年の言葉遣いは、この国の王侯貴族階級でしか使われないフォーマルなものだ。逆説的に、それができるこの少年の正体は、ただものではない。少なくとも、エレミアを跪かせる側であっても、跪く側の人間ではないことは確かだ。
しかし、エレミアは少年のことを何も知らない。会ったことさえなく、ましてや自分を慰めてくれるような殿方——少年であっても——に心当たりはなかった。
エレミアは指先で涙を拭き、謝る。
「ユリウス……聞いたことのない名前だけれど……ごめんなさい、あなたは私のことをご存知なのね」
「はい、もちろん。父と約束したのです、あなたを助けると」
「あなたのお父上は、どなた?」
「それはまた後ほど。さあ、まいりましょう」
少年の差し出した左手は、エレミアをどこかへ連れていこうとしている。
不意に、エレミアは動揺した。
「ど、どこへ? 私は、どこにも行けないわ」
「どうして?」
「それは」
——だって私は、カリシア子爵夫人なのよ。
そう言いかけて、エレミアは言い損ねた。
(今の私が……本当に、その肩書きを守れるのかしら。そのうちテニアがやってきて、私は離縁されるのが関の山だわ。だとしたら、私は本当にどこにも居場所がなくなる。なのに)
——なのに。
——だとしても。
エレミアの胸の中で、激しい葛藤が渦巻く。貴族令嬢として、カリシア子爵夫人として、そして誰もが嫌う——カリシア子爵マークでさえも『使い古し』と蔑む女としての自分。
それらはエレミアのすべてであり、エレミアからは離れないものだと思っていた。
ところが、ユリウス少年はあっさりとエレミアの葛藤を見抜き、力強い眼差しをエレミアへと向けた。
「あなたは逃げていい。奴隷のように鎖に繋がれることもなく自由であり、ましてや不義理に泣いて過ごす必要などどこにもない」
真っ直ぐに、エレミアへ向けられるユリウス少年の青灰色の瞳は、堂々としたものだ。そして、明らかにその言葉の内容は、エレミアのこれまでの過去を洗いざらい知った上でのものだろう。
エレミアは、ユリウス少年の目の色が、どこかで見覚えがあると気付いた。灰色がかった金髪に青灰色の目、同じく貴族以上の階級出身であろう言葉遣いや立ち居振る舞い。もどかしくも似ているのは誰だったかは思い出せない、けれど知っている気がした。
ただ、エレミアが決断するには、それで十分だった。
ユリウス少年はそっと左手を引っ込めて、立ち上がる。
「夜にまた来ます。それまで、考えておいてください。僕とここから離れるか、それとも押し付けられた不名誉に嘆きつづけるか」
そう言い残して、ユリウス少年は跡形もなく去っていった。