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第一話 失意の子爵夫人

新作です。一日三回を目安に投稿していくので、よろしくお願いします。

 それは春のこと。


 道々の樹木の若葉が生い茂り、新鮮な花の香りがどこからかやってくる。日に日に太陽は暖かさを取り戻し、明るい兆しがそこかしこに溢れる時期だ。


 小さくとも質実剛健な時代の建物が今も残るカリシア子爵邸には、少数の使用人とともにカリシア子爵夫人エレミアが住んでいた。


 まだ十八と若く、素朴で人好きのする笑顔を見せるエレミアは、カリシア子爵という田舎の貴族に嫁いで二年が経つ。元は王都に住む伯爵の五女だったが、エレミアの父と前カリシア子爵の結んだ婚約によって今のカリシア子爵——マークのもとにやってきた。


 たった、それだけのことだ。


 カリシア子爵領に春が訪れるころ、決まってマークは帰ってくる。


 エレミアは子爵夫人らしく首元から足元までしっかりと覆ったドレスと厚手のショールを羽織り、赤銅色の長い髪をゆるい三つ編みにして絹のリボンでまとめておいた。薄く化粧をして、手が空いている使用人を男女二人ほど伴い、カリシア子爵邸の玄関で主人の帰りを待つ。


 事前に手紙で伝えられていたとおり、マークはその日の正午きっかりに専用馬車を乗り付け、御者の用意した台を踏んでエレミアの前に降り立った。


 エレミアはゆっくりと頭を下げる。


「お帰りなさいませ、マーク様。お久しゅうございます」


 馬車から降りてきたのは、三十近い紳士だ。爵位の威厳よりもその剣呑な目つきが人々に畏怖を印象付ける。整髪料でなでつけた黒髪は一分の隙もなく、ただでさえ恐ろしい瞳も真っ黒だ。ヒールを履くエレミアよりわずかに高いだけの背丈で、それでも高みから見下ろしているかのような威圧感を与えている。


 このカリシア子爵家の本来の主人であるマークは、御者と使用人たちに荷物を下ろすよう手振りで指示し、それからエレミアに向き直った。


「食事は?」

「ご用意いたしております。どうぞ、食堂へ」

「ああ」


 マークが向き直ったのはエレミアに、ではなく、すでに開かれた玄関の扉にだ。


 大理石を叩く革靴の固い足音とともにマークがエレミアの横を通り過ぎようとしたそのとき、エレミアは意を決して、頭を下げたままこう言った。


「それから……テニアがマーク様の第一子を出産した旨、風の便りで耳にしました。おめでとうございます」


 コツン。


 足音が止み、マークはエレミアを睨みつけた。エレミアは、その目を見ないよう、じっと頭を下げたままだ。


 テニアはエレミアの父方の遠縁に当たる、王都のとある伯爵家の次女だ。とはいえ、王都の貴族を辿れば全員ほぼ親戚同士のようなもので、エレミアの記憶ではテニアは明るい茶髪で巻き毛のシャイな女の子だった、そのくらいしか憶えていなかった。


 そのテニアが、王都でマークの愛人となっており、仲睦まじく観劇や遠出をしているという噂は、遠く離れたエレミアの耳にも届いていた。それは何度となく聞こえてきて、おそらく真実なのだろうとエレミアが確信に至ったのは、父親から「テニアはカリシア子爵の子、それも男子を無事出産したそうだ。正妻のお前はまだだというのに」という落胆の手紙が少し前に届いたためだ。


 子爵夫人という地位にあるエレミアにとっては、最大限の侮辱に等しい知らせだ。とはいえ、それはそれとして、夫の喜ばしいことを妻として喜ぶべきだと思ったからこそ、話題にしたつもりだった。


 しかし、エレミアの後頭部へ降ってきたのは、殊更に厳しい口調だった。


「嫌味か?」

「とんでもない」

「お前よりテニアをもらうべきだった。売れ残りには売れ残りなりの理由があるというわけだ、勉強になった」


 マークの言葉の刃は、エレミアの心をあっという間にズタズタにしていく。


 夫の不義理をどれほど訴えたところで、無意味だ。


 震えるエレミアは、反論するよりも、一度子爵夫人として振る舞うと決めたのなら貫き通さなければならなかった。わずかでもある貴族の女性としての誇りが、エレミアにそうさせたのだ。


 エレミアは頭を上げたものの、マークと目を合わせないよう正面を向いた。馬車に積んでいた荷物のトランクを運ぶ使用人たちはエレミアたちと関わり合わぬよう、逃げるように去っていく。


 マークの次の足音が聞こえる前に、エレミアはもう一度、思い切ってマークへ訴える。


「マーク様……こたびは、ここに泊まって行かれるのでしょうか」

「そのつもりだが、お前と同衾(どうきん)するつもりはない」


 一切を遮断するように、マークはあっさりとエレミアを拒絶した。


 今まで、一度たりともマークはエレミアの体に触れたことはない。


 それが今後も続くとなれば、真正面からの異性としての——夫婦でありながらの——拒絶に、ショックのあまりエレミアは眩暈(めまい)を覚えたが、必死に耐える。あまりにも余裕がなく、マークを見つめることさえできない。


「なぜ、ですか? 私は」


 その必死さを、陰湿に唇を歪めてマークは嘲笑った。


「それが夫を求める態度か? どうせテニアに嫉妬して自分も子どもを、と思っているのだろうが」

「いえ、私は子爵夫人として役目を果たしとうございます。どうか」

「笑わせる。それで過去の行いが消えるとでも?」


 はっきりと、言葉の鋭い刃は、エレミアの心臓を捉えた。


 倒れそうになる体をどうにか支えるエレミアの背へ、最後通牒のように、マークは言い放った。


「使い古しの女に慰めてもらわずともかまわん。目障りだ、もう出てくるな」


 コツン。コツン。


 足音は遠ざかっていく。


 仕事を終えた馬車は帰っていき、使用人たちは本来の主人への奉仕に慌ただしい。


 エレミアは、力が抜けたようにその場に崩れ落ち、今度は涙と嗚咽を必死になって(こら)える。


「……う、ぁ」


 とめどなく流れる涙を、ドレスの袖で両目を覆って(ぬぐ)い、もう片方の袖を噛んで漏れ出る嗚咽を自分の中に留めおく。


 うずくまるエレミアのもとには、もう誰もいない。誰も来ない。


 春の暖かな日差しだけが、エレミアを慰めていた。

ぼちぼちやっていきます。

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