第六話:隠れ家での約束と、初めての笑顔
暗殺者を退けた後、カイン様は私を王都の一角にある、こぢんまりとしたアパルトメントの一室へ案内した。
「元帥閣下が用意された隠れ家だ。強力な防御結界が張られている。ここでは誰も手出しできん」
室内は、華美ではないが必要なものがすべて揃えられており、不思議と落ち着く空間だった。
アドレナリンが切れ、安堵した途端、先ほどの戦闘の恐怖が蘇る。私が震えているのに気づいたのか、カイン様は私の肩にそっと触れた。
「……すまない、怖い思いをさせた」
「いえ……! それより、カイン様こそ、お怪我は……!」
見れば、彼の腕から血が滲んでいる。刺客の刃が掠めたのだろう。
「これくらい、どうということはない」
「私にとっては、一大事です!」
私は、ほとんど叫ぶように言っていた。彼の無事が、私にとって何よりも大事なことなのだと、今、はっきりと自覚した。
私は部屋にあった救急箱から、薬草の軟膏と綺麗な布を取り出すと、彼の前に屈んだ。
「……動かないでください」
「だが……」
「お願いします」
真剣な私の瞳に、彼の方が根負けしたようだった。黙って腕を差し出してくれる。私は、その傷だらけの腕に、そっと軟膏を塗り込んだ。彼の筋肉が、ぴくりと硬直するのが分かった。こんな風に、誰かに手当てをされることなど、今までなかったのかもしれない。
「君の手は、温かいのだな」
ぽつりと、彼が呟いた。私の力は、いつも冷たい悪意ばかりを感じ取ってきた。けれど、この人に触れている今は、自分の魔力が温かく、優しい光を帯びていくような気がした。
◇◇◇
翌日、元帥閣下から、明日の朝一番に国王陛下への私的な謁見が許されたとの報せが届いた。
いよいよ、すべてが決まる。
報せと共に、一着のドレスが届けられた。夜空のように深い青色をした、シンプルだが極めて上質なシルクのドレス。派手な装飾はないが、着る者の気品を最大限に引き出すであろう、見事な一品だった。
「私に……こんなものが、務まるでしょうか」
不安げに呟く私に、カイン様は静かな、しかし力強い声で言った。
「君はそのドレスに相応しい。いや、ドレスの方が君に仕えるべきだ。胸を張れ、アリア。君は、俺が選んだ唯一の調律師なのだから」
その言葉が、どれほど私の心を支えてくれたことだろう。
決戦前夜。
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが、部屋に響いていた。
「カイン様は、どうして監察官に?」
静寂を破ったのは、私の問いだった。
彼は少しだけ遠い目をして、ぽつり、ぽつりと語り始めた。かつて、彼の父親が仕えていた実直な騎士が、貴族の不正の濡れ衣を着せられて、無念の死を遂げたこと。幼い彼は、権力の前では真実さえも捻じ曲げられる無力さを、骨身に染みて知ったのだと。
「二度と、あのような理不尽を繰り返させない。そのために、俺はここにいる」
彼の戦いは、復讐ではない。未来のための、気高い正義の戦いだった。
私は、この人の力になりたいと、心の底から思った。
「私は、カイン様の剣になります」
私は立ち上がり、彼の前にまっすぐに立った。
「あなたの目となり、あなたの背中を守る剣に。だから、もう一人で戦わないでください」
それは、私の魂からの誓いだった。
もう、守られるだけのか弱い存在ではない。あなたの隣で、共に戦うパートナーになりたい。
カイン様は、驚いたように私を見つめていたが、やがて、その硬い表情がふっと和らいだ。彼はゆっくりと私の手を取ると、力強く握りしめる。
「……ああ、約束だ」
そして、彼は笑った。
今まで見た、どんな微かな笑みとも違う、心からの、優しい笑顔だった。
その笑顔を守るためなら、私はどんな闇の中へも、ためらわずに飛び込んでいける。そう、確信した。