第五話:公爵家の影と、王都の暗殺者
アルバレスト公爵家――王妃の実家にして、王国最大の権勢を誇る一族。
とてつもない大物の名前に、私の思考は凍り付いた。それは、ただの工房の調律師だった私が、逆立ちしても関わることのない、雲の上の存在だ。
リヴェンからの帰り道、馬車の中は重い沈黙に支配されていた。
私たちが相手にしようとしているのは、一歩間違えば国を揺るがすほどの権力者。その事実が、ずしりと私の心にのしかかる。本当に、私にこの先へ進む覚悟があるのだろうか。
「恐れるな」
不意に、隣に座るカイン様が静かに言った。
「俺がいる。真実を白日の下に晒し、罪を犯した者が誰であろうと裁きにかける。それが俺の仕事だ」
彼の言葉は、不思議なほど私の心を落ち着かせた。そうだ、私は一人じゃない。この人の隣で、私にできることをしよう。私は、こくりと力強く頷いた。
王都に戻った私たちは、騎士団庁舎には戻らず、ある壮麗な屋敷の裏口を訪ねた。
「ここは……?」
「王国騎士団総長、ジグムント元帥閣下の屋敷だ。私の師であり、この国でアルバレスト公爵と唯一渡り合えるお方だ」
私たちは、元帥の書斎へと通された。白髪の、しかし鋼のような肉体を持つ老人が、私たちを待っていた。その眼光は、カイン様以上に鋭く、すべてを見透かすようだ。
カイン様は、ケストレル砦での一件から、呪矢の出所、そしてアルバレスト公爵家の名まで、一切を包み隠さず報告した。元帥は黙って聞いていたが、その表情は次第に険しくなっていく。
「……して、そこの嬢ちゃんが、呪矢の出所を突き止めた『調律師』か」
元帥の視線が、私を射抜く。私は息をのみながらも、必死に頷いた。
「素晴らしい力だ。だが、それ故に危険でもある。アルバレスト公爵は、己の秘密を知る者を決して生かしてはおかぬぞ」
元帥は立ち上がると、重々しく告げた。
「これはもはや、単なる魔道具の調査ではない。王国を蝕む膿を出すための戦いだ。私が全責任を持って、貴殿らの後ろ盾となる。至急、陛下への私的な謁見を取り計らおう。だが、覚悟せよ。その時まで、王都の闇は貴殿らの命を狙い続けるだろう」
元帥の屋敷を辞したのは、すっかり日が落ちた後だった。
これから始まる本当の戦いに、私の心は引き締まる思いだった。カイン様は「安全な隠れ家へ送る」と言って、私を人通りの少ない裏路地へと導いた。
その時だった。
闇の中から、音もなく複数の影が躍り出た。抜かれた刃が、月光を鈍く反射する。暗殺者だ!
「アリア、下がっていろ!」
カイン様が私を背後にかばい、瞬時に剣を抜く。彼の纏う空気が、監察官のものから、敵を屠る戦士のそれへと変わった。
しかし、敵はただのチンピラではない。統制の取れた動きで、死角から次々と襲いかかってくる。
「カイン様、上です!」
私は、頭上から迫る、濃密な殺気に気づき、叫んだ。私の声に反応し、カイン様は振り返りざまに刃を閃かせ、屋根から飛び降りてきた刺客を弾き返す。
私の力は、直接的な戦闘には使えない。けれど、敵の殺気、その悪意の『澱』の方向は、誰よりも正確に感じ取れる!
「右から二人!」
「左後方にも、気配が……!」
私の『調律』による警告が、カイン様の目となる。彼は私の言葉を完全に信頼し、最小限の動きで、恐ろしいほどの効率で敵を無力化していく。
私たちの間には、いつしか言葉を超えた連携が生まれていた。
最後の刺客を打ち倒したカイン様は、倒れた男の腕をまくった。
その腕には、私たちがリヴェンで見たものと同じ、『銀の蛇』の紋章が、不気味に刻まれていた。
もはや、疑う余地はない。
「……怪我はないか、アリア」
荒い息の中、カイン様が振り返る。その声には、隠しきれないほどの心配が滲んでいた。
私は首を横に振る。大丈夫。あなたがいるから。そして、私も、あなたの隣で戦えるから。
「ええ。私たちは、二人ですから」
そう言うと、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、フッと、本当に微かに口元を緩めた。
それは、私が初めて見る、彼の笑顔だったのかもしれない。