16 あの日のこと(蒼人視点)
太陽から連絡が来た時は、心臓が止まるかと思った。
いつもは家族や俺、身内と呼べる人間が常に一緒に出かけていた。
それが、今は俺が側について守ってやれない。だから不在の間、太陽に麻琴を見守るように頼んでいた。
それでも、麻琴の自由を奪いたくなかったし、尊重してあげたかった。だから、太陽から報告があっても、クラスメイトと出かけることを止めなかった。
──でも、俺の判断は間違っていた。
急いで連絡を受けた場所へ向かうと、そこはオメガのヒートに対応出来るホテルだった。
麻琴はここに……。
自動ドアすら開くのを待てないように、隙間から滑り込む。
「すみません! 由比麻琴の身内の者ですが! 森島蒼人です!」
正確なことを言えばもちろん身内ではない。それでもここへ来る前に、ちゃんとご両親と連絡を取っている。
「ああ、森島蒼人さんですね。お家の方から連絡を頂いています。……さあ、こちらへどうぞ」
そう言われて案内された一室。流石はヒート対応ホテルというだけあって、廊下にフェロモンは漏れていない。
ホテルの従業員は早口に簡単な諸注意だけ言って、あとはこれに書いてありますと用紙を渡してきた。そして、失礼しますと言って足早に戻っていった。
息を整えてから1つ扉を開けると、もう1つ扉が見えた。案内された通り、扉を完全に閉めてから次の扉を開ける。
2つ目の扉を開けた途端、いつもの比ではない量のフェロモンが室内に充満していた。
「くっ……」
ここへ来る前に、ある人物から『これはアルファ用の薬だから飲んで行くと良い』そう言って渡されたものを飲んできた。オメガのフェロモンを体内へ不用意に取り込まないようにする、抵抗薬だ。
予期せぬ事故防止には十分効果が期待出来るのに、自ら薬を飲もうとするアルファは少なく、フェロモン事故はオメガが原因とする風潮は未だに消えずにいた。そのせいか、抵抗薬の開発は遅れていて、出回る数も極端に少ない。
「……麻琴、わかるか……? 俺だ、蒼人だ」
広いベッドの片隅に小さく丸くなって横たわっていた麻琴に声をかけた。
よく耳を傾けると、小さな声で「あおとあおとあおとあおと……」と、呪文のように繰り返している。
こんな緊急事態なのに、麻琴が意識のはっきりしない中でも俺の名前を呼んでくれているのが嬉しくて、思わず口元が緩んでしまう。
けど、そんなことで喜んでる場合ではない。気を引き締めて麻琴を抱き上げると、ゆっくりと自分のフェロモンを出して、麻琴にまとわせるようにしながら、優しく体を擦る。
「ん……」
しばらく様子を見ていたら、僅かに意識を取り戻したのか薄っすらと目を開けた。けれどその目は焦点が合わず、ぼーっと遠くを見つめている。
もう一度名前を呼びながら、フェロモンの段階を少し強めると、「あ……おと?」そう言ってこちらを見たが、その瞬間、先ほどとは比べ物にならないくらいの、大量のフェロモンが一気に放出された。
────っ!
麻琴の狂わしいほどに魅力的なフェロモンを大量に浴び、一気に目眩がしてくる。
マズイ。このままでは、俺自身の自我を失ってしまうと、自らの腕を噛み、理性を保とうとただ必死に抗い続けた。
目の前のオメガを自分のモノにしろ、──そう脳内に響き渡る甘い囁き。
無意識に俺を求め続けているんだ。何も間違っていない。合意の上だ。
いや、俺は麻琴を大切にしたいんだ。こんなの間違っている。
順番を間違ってしまうけど、いつかは麻琴を……そう思っているんだから、良いじゃないか。
良いわけない。ちゃんと告白して付き合って、大事に愛を育てていきたいんだ。
どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。30分か。いや、たった1分の出来事だったのかもしれない。
時間の感覚もわからなくなるまで抗い続けて、……でも、理性と本能のせめぎ合いに負けそうになった時──。
「麻琴っ! 蒼人っ!」
激しくドアを開ける音と、俺達の名前を叫ぶ声が聞こえた。
意識が飛びそうになりながらもドアの方を見ると、必死な顔をして部屋に踏み込んできたのは、麻琴のピンチを教えてくれた太陽だった。
部屋に飛び込んできた太陽は、俺の様子を見て驚いた顔をしていた。
麻琴を抱きしめ、自分の腕を噛みながら必死に理性を保とうとしていた俺は、すごい形相だったんだと思う。
それでも、俺達に近付いて、麻琴を引き受けようとした。
「──っ!」
けれど。太陽は伸ばした手をビクッと震わせ動きを止めた。
俺は、麻琴を誰にも奪われたくないと、助けに来てくれた太陽でさえ威嚇したんだ。
そこからの記憶は、俺も途切れてしまって覚えていない。
あとから太陽に聞いた話によると、ちょうど到着した救急隊員と一緒になって、俺達を引き離したらしい。
『ベータの俺でさえ圧倒されてしまうくらいの、アルファの威圧を放っていて大変だったよ』そう苦笑いをしながら話してくれた。
やっと引き離したものの、麻琴の側から離れようとしなかった俺に、一時的な麻酔効果のある注射を打って、一緒に病院へと搬送したそうだ。
ラット状態になっていた俺だけど麻琴より先に目が覚め、もう落ち着いたのを確認されてから、同室で麻琴の側にいる許可が降りた。
麻琴が目覚めるのを待つ間、俺はあちこちへと連絡していた。
太陽に報告してもらっていた麻琴の様子と、俺自身の周りでの動きと、いくつか気になることがあった。
今回の喫茶店での事件との関わりはわからないけど、どうしても引っかかる。
休学中の俺が大きく動くことは出来ないので、協力を得ながら調べていくことにした。
結局その後麻琴はすぐに目覚めず、入院から二日目の月曜日に、やっと目を覚ました。




