今年のバレンタインは
紀沙はイベント事にはなるべく乗っかって楽しむことにしている。
付き合いが長くなっても彼氏の誕生日にケーキとプレゼントは欠かしたことがない。バレンタインとホワイトデーにはどちらか、あるいは両方プレゼントを用意するし、クリスマスも短時間であっても一緒に過ごすのが習慣になっている。
だからその年のクリスマスイブも、残業役に立候補して時間を潰した後に彼氏の職場に向かった。
彼の職場はファミリーレストランである。
店長である恭一郎は、イベント日には必ず出勤して最後まで残っているのだ。
後輩やバイトだけに押し付けるわけにはいかねえし。
なんて言っていた。
真面目なところは、彼の美徳のひとつだ。
そんな彼の仕事振りに応えるように、唯一の社員である後輩の萩野も、同じように真面目な性質であるらしい。
新入社員の萩野くん、がただの萩野、に変わる頃に、一度だけ三人で飲みに行ったことがある。
仕事でミスをして無性に恭一郎に会いたくなって、約束のない日に彼のアパートに向かっていた。駅前のカフェで時間を潰していたところに、ふたりでやって来たのだ。
ごめん。今連絡気づいた。萩野と飲みに行くところだったんだけど、三人でいい?
紀沙は二つ返事でオッケーした。
行こ行こ! わたし明日も仕事だけど飲んじゃおう!
上司に引き摺られて来たらしく、遠慮勝ちだった歳下男子を真ん中に、居酒屋に行ったのだ。
彼氏の可愛い後輩であるところの萩野は大人しめ男子で、上司カップルの話に控えめに笑いながら静かに飲んでいた。
時々入れる冷静なツッコミが面白くて、なるほど、恭一郎が好きになるわけだと納得したのだ。
紀沙もそろそろ解散するか、と店を出る頃には、彼は自分の後輩でもあると錯覚してしまうくらいには親しくなれたように思っている。
そんな萩野遥樹君。
(っ、…………へええええ)
紀沙は爆上がりしたテンションを必死で抑えつけた。
店舗入って左、トイレの扉の内側である。
ふたつ並んだ個室はどちらも無人、つまり手を洗って席に戻りかけの紀沙が開きかけたドアをそっと閉め直しても咎める人物はいない。
告白されている。
萩野が、一瞬しか見えなかったが学生らしき女の子に告白されている。
「………………」
盗み聞きはよくないだろうと、途中でそっとドアを閉めたために、得られた情報は少ない。
レジ前のハタチ前後の女の子。
ただならぬ決意が一瞬で伝わってきた。
最近はご無沙汰なあの空気感。
紀沙はあの空気を、外野として見てばかりだ。
「向井さん!」
紀沙は挨拶もろくに交わしたことのないクラスメイトに呼び掛けられて、怪訝な顔をした。
もちろん顔は知っている。名前も。
田中恭一郎。
同じクラスで、あまり目立たないグループに所属している。積極的に大騒ぎするタイプではないけれど男ばかりでいつも楽しそうにしている、問題は起こさない、なんというか無害な男子だ。
紀沙たちバレー部含む運動部は、体操服のまま帰るのが普通だ。
当然部活上がりである今も、女バレ一年の五人は体操服に通学リュックを背負っている。
「田中くん? 何かあった? あたしたち部活終わったとこだから臭いよ」
無害な男子は、近づくな、の牽制に案外怯むことなく小走りの速度を維持して目の前まで到着した。
彼の少し後ろから、なぜか遠慮勝ちに歩いている男子のほうは確かテニス部だったはずだ。
「大丈夫。俺らも同じ。頼みがあるんだ。こっち来て」
あたしに? と紀沙が怪訝な顔をするのに頷いて、恭一郎はその隣のクラスメイトにも同じように手招きした。
何なに、と全員が興味を示したところで、ようやく到着したテニス部男子が声を出した。
彼は、紀沙の隣にいた部活仲間の名前を呼んだ。
緊張をはらんだその呼び掛けに、部活仲間の小さめ女子がビクッと顔を上げる。
紀沙が隣の友人とテニス部男子を見てから、そういうこと? と恭一郎に視線で訊ねる。
そういうことです、と彼は同じく無言で頷きを返して、女子四人にその場から離れるよう無言で頼む。
了解です、と全員で快く素早い移動に協力した。
これまで関わったことのない異性からの無言の要請だったが、同じ高校同学年の絆が、一瞬で以心伝心を可能とした。
さりげなく、は無理だった。二、三歩進んだところで、女子の興奮が弾けた。
きゃーっじゃねえ。たっけえ声で叫ぶな。
小声で文句を言う恭一郎は後ろを確認したが、彼の友人は気にする余裕もないようだった。
紀沙は小走りになりがら、真横を同じ速度で進むクラスメイトの男子を見ていた。
がんばれよー
口パクでそう言った彼は、自分事のように緊張しながらもひどく優しい表情をしていた。
いいやつだな。
こんな友達がいるなら、今友人に告白しているテニス部男子も悪い奴ではないのだろう。
もしもこの後友人に相談されたら、こっそり助言しておこうかな。
あそこのグループの男子はね、優しくて印象いいよ。
そんなこと言ったら無責任かな。
春から今日このときまで、一学期の紀沙はずっと同じ教室にいたはずのこのひとの存在に、気づいていなかった。
恭一郎の夏だからと短くしたばかりなのだろう黒髪が、前方からの風圧で逆立っている。
こんなに日焼けしてるひとだったかな。
汗がにじんだ額に風を受けて、気持ち良さそうにしている。
料理男子、弁当がたまに自作のものだという話は小耳に挟んでいる。美味しそう、美味しい、と男子が騒いでいたのだ。
ほとんど料理経験のない紀沙は、すごいな、と思っていた。
そのくらいのことしか知らない。
もう少し彼のことを知りたいな、とそのとき紀沙はそう思った。
友人は、お試し期間のような友達関係を経てから、告白してきたテニス部男子と付き合い始めた。
そのお試し期間に、紀沙も恭一郎も付き合わされた。
紀沙の心情的にはセッティングしてもらった、が正確だか、とにかくそれまで関わりのなかった恭一郎と会う機会が増えた。
ボウリング行く約束になった、とか一緒に勉強会しよう、とか、中学生か! と棚上げな文句を言いながら、グループ交際のような関係にしばらく参加していたのだ。
ふたりがグループで集まることを提案しなくなってからも、それまでに築いた関係はなくならなかった。紀沙と恭一郎は会えば挨拶するし、方向が同じならば並んで歩くことが自然になる程度には親しくなっていた。
グループ内の他の男子とはそうならなかったし、恭一郎が他の女子と同じようにする姿を見ることもなかった。
そんな関係が長く続いた。
今更何をどうしてどうなればいいのか分からなくなってしまった淡々とした付き合いに終止符を打ってくれたのは恭一郎だ。
大学一年のバレンタインに好きだと言ってくれて、その日からふたりは付き合うことになった。
あの告白の場面は今でもはっきり覚えている。
すごくすごく嬉しくて、感動したからだ。
ガラにもなく泣きそうになって、胸が詰まってなかなか声を出せなかった。
告白の言葉に笑ってみせたのは、なけなしの女のプライドだ。
口に出して言ったことはないけれど、一生忘れないつもりでいる思い出だ。
だがそんな甘酸っぱい思い出のなかにも、どきどきするような緊張感は存在していない。
恭一郎からすれば異論はあるかもしれないけれど、紀沙の気持ちは彼も分かっていたはずだ。あのとき必要だったのは言語化によるふたりの関係の確認作業、ただそれだけだった。
(いいなあ……)
紀沙は女の子が帰ったであろう充分な時間を見計らってから、席に戻った。
閉店時刻が近い。
閉店作業は自分がやるんで、店長はすぐ帰しますね。
萩野が頼もしいことを言ってくれていたので、もう一杯ドリンクバーでおかわりをしたら外に出るつもりだ。
近くのコンビニで少しだけ待っていれば、迎えに来てくれる約束になっている。
そんな公私混同しなくていいよ、先に部屋で待ってるから。とは言っているのだが、彼氏よりもむしろその後輩がこの時刻は駄目でしょ、と意外なほどの押しの強さを見せてくれたのだ。
彼のそういうところに、あの女の子は気づいていたのだろうか。それで好きになったのか。
寒い外に出る前にとホットココアで身体を温めながら、紀沙はなんとなく窓の外を見た。
(萩野くんだ)
制服にコートを引っ掛けただけの格好で、大人らしくない、小走り以上の速度で駐車場を突っ切っている。
これは、さっきの告白の続きの場面だろうか。
今から彼女を追いかけて返事をするのか。それなんてドラマ。
「……今の見た?」
テーブルに残った皿を片付ける振りでやって来た恭一郎が、小声で訊ねる。
店内にはもう二組ばかり客が残っているからだ。
「見たよ。恭一くんも見てたんだ」
「ちょうど裏から出ようとしたとこだったから、慌ててドア閉めた」
「何そのコント。わたしもトイレで同じことしちゃってたよ」
「萩野、あの女の子に外で待ってて、って言ってたから、ダッシュで裏にコート取りに行って着させて追い出してやった」
「いい上司じゃん」
「だろ」
「せーしゅんだねえ」
「なー」
恭一郎は、可愛がっている後輩に降って湧いた春に嬉しそうだ。
昔と変わらず、他人の幸せを心底から喜べるひと。
こんなひとが一緒にいてくれる紀沙が、青春の一場面を目撃して、いいなあ、なんて感想を持つのは贅沢すぎるか。
「……どうしよっか。彼、やっぱり今日は早く帰してあげる感じ?」
「いんや。とりあえず次の約束だけしてすぐ帰すって言ってたから。予定通りで大丈夫だろ」
まあそうか。こんな深夜に学生の女の子を引き留めるものではない。常識的紳士な萩野がやることではない。
「了解。じゃあこれ飲んだらそこのコンビニで待ってる」
「悪いな。なるべく急ぐから……てもうちょい待ったげようぜ。萩野、コンビニ指定してたから」
「……それ聞いちゃったら、覗きに行きたい衝動と戦わなきゃいけなくなるじゃん」
「モテ男が戻ってくるまで、そこで独り戦ってて」
自分よりだいぶ歳下の女の子を見て、いいなあ、なんて思う歳になってしまったのか。
二十六歳。
まだまだ若い。若いけれど、学生のような初々しさはもうないし、職場ではもう中堅だぞ、甘えんなよ、とプレッシャーをかけられるようになってきた。
同年代から少しずつ結婚話が出てきた、早い子はもう子どもを産んでいる。
そんな年齢になってきたから、純粋な目で好きですと言える女の子を羨ましく思ってしまったのだ。
紀沙は恋愛事に夢中になったことがない。
そもそも、高校の頃から付かず離れずの付き合いをしていた恭一郎以外の男性に目を向けたことがないのだ。
長い友人期間を経てから、これといった盛り上がりを見せることのないまま交際が始まって今まで続いている。
知り合ってから十年以上、付き合うようになってからは八年が経った。
一緒にいてどきどき、は今更しないし、新鮮さはまったくない。
熟年夫婦の貫禄だよね。てかまだ結婚してないんだっけ? なんて言われることも珍しくない。
紀沙はそれでいいと思っている。
正確には思っていた、だ。
クリスマスイブに見たキラキラした女の子と、彼女を前にして浮かれる男の子。
いいなあ、なんて思ってしまったのは、本心のところでは今の彼氏との関係に倦んできたせいなのだろうか。
紀沙の彼氏、恭一郎は優しいひとだ。
人並みに腹を立てることもあるようだが、人間としての基本部分が優しくできているのだ。
「紀沙さーん? 今日デザートもあるんだけど」
彼女が難しい顔をしていても、面倒臭ぇな、とはならずにまず何かあったかと気を巡らせ、機嫌を取ろうと試みてくれる。
だからついつい、仕事の憂さや心中のもやもやを表に出して甘やかしてもらいたくなるのだ。
「食べる」
「よしきた。じゃあ食事は終了でオッケー?」
「んー、最後にミネストローネおかわりしていい?」
「ハイハイ」
今日は平日。紀沙は仕事帰り、夕食を用意してくれた恭一郎のアパートに来ている。
疲れたあ、と長座椅子に倒れ込む彼女を尻目に、料理が載った皿を運んできてくれる。
それを当たり前の顔をしてしてくれるのだ。
「……美味しい」
温かいスープを啜ると、恭一郎が嬉しそうな顔をする。
「だろ。冬にはいいよな。簡単だけど美味い」
「簡単の基準が」
「紀沙には難しいかー」
「ええ」
料理音痴の紀沙が悪びれることなく肯定しても、恭一郎は嫌な顔をしない。
「まあいいんだけど。俺が作るから」
彼は、こんな彼女で嫌になったりしないのだろうか。
高校生からずっと同じひとと一緒にいて、世の中にいっぱいいる料理が上手で可愛い女の子との可能性を試したりすることもなく。
ただずっと、紀沙のそばに居てくれて。
飽きたり、とか、嫌気が差したり、とか。
一度もないのだろうか。
彼は、このままでいいのだろうか。
「わたしさ」
デザートのコンビニスイーツにスプーンを差し込みながら、紀沙はふっと頭に浮かんだことを吟味してみた。
「んー?」
思いつきだが、悪くない考えだ。
「わたし、しばらくここに来るのやめるね」
「……へ?」
「しばらく恭一くんとは会わない」
「…………なんで?」
一ヶ月。紀沙は思い付きから具体的な計画を立て、工程表に落とし込んだ。
工数は多いが、ひとつひとつはそう難しいものではない。はずだ。
仕事と同じだ。基礎からコツコツ。やるべきことをやれば、荒地だった場所に立派な建物が出来上がるのだ。
これまで紀沙は、恭一郎に何もしてあげてこなかった。
どちらが言い出してもよかったのに、告白は彼のほうからしてくれた。
進学先はともかく、恭一郎が就職先を首都圏に求めたのは多分、紀沙に合わせてくれた結果だ。都内の会社に就職することを目標としていた紀沙を応援しながら、自分もなるべく近くにいられるようにと就職活動してくれた。
紀沙は現状に満足していたし、このままでいられればいいと思っていた。
それでも、気づけばもう二十六歳だ。
器の大きな彼氏に甘えたまま歳を取り続けるわけにはいかない。
そのことに、気づかされてしまった。
いいなあ、なんて言っている場合ではない。
新鮮味がなくなってしまったふたりの関係を次に進めるために、今度は紀沙が動く番だ。
そして一ヶ月。今日は二月十四日、バレンタインデーである。
「出来たんだ」
不可解な表情をしていた恭一郎が、少しずつ眉間の皺をほぐしていく。
「出来ましたね。意外と」
平日、しかも金曜日であるが、何日も前から仕事を調整し、定時で退社してきた。新人の頃にはできなかった芸当である。
紀沙は計画通りスーパーに寄って、事前に作成したメモ通りの買い物をし、予定通りの時刻に帰宅した。
その後はただ無心で、余計なことを考えずに、レシピ通りの手順で食材を組立て、もとい調理していった。
余計なこと、とは、砂糖と塩、両方入れる必要あるの? とか、調味料この量だと味足りなくない?とかいうことだ。
ハンバーグに手を出すのはまだ早い。
料理が下手だって自覚があるなら食材で勝負すればいいんです。お金あるんだから、ステーキ肉買って焼いてください。大丈夫、多少失敗しても美味しいから。
料理上手な先生からの助言により決めたメニューは、ステーキ、付け合わせに半分に切ったミニトマトとブロッコリー、ベビーリーフ。大きめの皿にそれらを盛り付けて、スープカップにはミネストローネ。家ご飯だから白米は普通に茶碗に盛って。
これだけ。
これだけだが、紀沙が初めて彼氏に用意してあげた食事だ。
わたしが用意するから、家で夕食一緒に食べようよ。遅くなっても待ってるから。
一ヶ月振りの連絡に、恭一郎は了解、とだけ返信して、予想よりも早く仕事を切り上げて紀沙の部屋へやって来た。
彼はやって来てからはほとんど無言のまま、キッチンで騒がしく料理の仕上げをする紀沙を待っていた。
「料理をね、少しはできるようになろうと思って練習してたの」
一ヶ月会わない宣言の理由を説明しながら配膳する紀沙に、恭一郎はようやく安心したような笑顔を見せた。
彼はいただきます、と手を合わせてから、料理下手な彼女の手料理を躊躇なく口に入れた。
「うまい」
「でしょ。いい肉買ったからね」
「ミネストローネも美味いよ」
「でしょ」
「うん」
普段の食事時よりも、会話が少ない。
仕事帰りの恭一郎の皿には、大きいほうのステーキを盛りつけた。
小さいほうのステーキを先に食べ終わった紀沙は、水を飲みながら一ヶ月振りの彼氏の顔を見直した。
清潔感のある短髪は、大学時代に一瞬染めていた以外はずっと黒いまま。高校時代と変わらない、優しい印象。
顔はどうかな。特別かっこいいわけではない。だけど紀沙は、これまで他の顔に惹かれたことがない。
安心する、が一番はじめにくる感情だ。
多分この先、このひと以上にいるだけで紀沙を安心させてくれるひとは現れない。
「ねえ」
やっぱり高い肉は違うな、と噛みしめている恭一郎は、力の抜けた顔で紀沙を見た。
「ん?」
「結婚したいな、って思っちゃったんだけど。恭一くんはどう?」
「ん」
肉を咀嚼する顎が一度完全に止まった。
止まったのは短い時間だった。恭一郎は左の掌を紀沙に見せながら、そう急ぐでもなく咀嚼を再開し、完全に嚥下してしまってから水をひとくち飲んだ。
「…………俺、オマエのそういうとこキライ」
心底嫌そうに言われた。
「答えが想像と違った」
「想像のなかの俺はなんて」
「喜んで、ハート」
「言わねえし付けねえよ」
けっこうひどいことを言われているが、拒絶されている気がしなくて、紀沙は頬杖をつきながら恭一郎の動きを見守った。
先ほどの会話はなかったことにしたいのだろうか。
彼は残り少なくなった食事をゆっくり平らげてから、大きな溜め息をついた。
それから壁際に放置していたカバンをごそごそして、出てきた紙袋を投げて寄越す。
「渡し方雑」
「誰のせいだよ」
紙袋を覗きこむと、タッパーが入っている。
中身は、小さなチョコレートケーキ。じゃないな。これは。
「ザッハトルテだ。作ってくれたんだ」
去年のバレンタインに、食べたいと言った記憶がある。
「作りますよ。リクエストもらっちゃったんで」
「ありがとう。わたしもね、今年はチョコ作ろうと思ったんだけど、さすがに余裕なくて。買ったやつならあるよ」
「いただきます」
部屋の隅に置いた机の上に置いてある包みにはとうに気づいていたのだろう。恭一郎は自分のほうが近いからと、手を伸ばして勝手に取ってしまった。
「食べていい?」
「どうぞ。俺はこっちもらう」
雑なチョコレートの交換会である。
付き合いが長くなるとこんなふうになっても仕方ないのか。
やっぱり紀沙たちはもう、キラキラしている学生とは違う。
「美味しいよ」
「当たり前だろ。こっちは高級な味がする」
「奮発したから。ひとつちょうだい」
「やだ。これは俺のだ」
「えー」
自分のぶんも買えばよかった、と膨れたところに、チョコレートとは別の箱を突き出された。
「……これ」
「萩野が異動になっただろ」
思いがけないプレゼントに驚く紀沙をよそに、恭一郎は関係のない話をはじめた。
「……みたいだね」
「元々あいつ社内SE希望の入社だったんだけど、もう一年くらいは店舗勤務のはずだったんだよ。なのに急な休職とか退職とかが重なって、予定より早く本社勤務!」
「なんかそんなこと言ってたかも」
「本当は! 俺が先に本社行く予定だったのに! 四月の異動で行けるかなあって楽しみにしてたのに!」
「残念だったね」
よく分からないが、とりあえず相槌を打っておけばいいのだろう。紀沙は大人しく話の続きを待った。
「本社勤務になったら土日祝日休みなんだよ。カレンダー通り生活できるんだよ」
「そうだね」
「それをあいつ、後輩のくせに先に行きやがって。おかげで俺は、次来た奴が慣れるまで待てって異動保留の内示が出たよ。なんだよ保留の内示って。初めて聞いたわ」
あれ。もしかしてこれ、ただの愚痴なのかな。話の続きなんてない?
「……そうだね」
「だからプロポーズも保留!」
「ん?」
「のつもりで指輪の代わりにネックレス用意したの! 紀沙そういうの好きだろ」
「そう繋がったか」
思わず笑ってしまった。
箱から出てきたダブルリングのネックレスを手に取って眺めてみる。
そういうの好き、というのは、プレゼントに込められた意味を考えること、だろうか。
これはきっと、繋がり、とか絆、とか、そういう意味を込めてくれたプレゼントなのだろう。
「ありがとう。嬉しい」
「……それ、俺がつけるべき?」
「お願いします」
手渡して後ろを向くと、恭一郎の手が器用に動いて紀沙の頸の後ろで留め具をはめた。
そのままお腹を引き寄せられたから、紀沙は逆らわず彼の身体に寄りかかった。
「……さっきのたわごとは聞かなかったことにする」
「ひど」
「ひどいのはそっちだ。……俺がどんな思いで」
珍しく本気で怒らせてしまったのかもしれない。
軽い気持ちで言ったわけではないのだが。
「恭一くん、わたしが仕事辞めたくないって言ってるの、気にしてたでしょ」
「してたよ。してるよ。だから」
「だから、じゃなくてでも、って思ってもらえるように、今日頑張ったんだけど」
「…………料理を?」
「です」
「……………………」
「ちゃんとした食事だったでしょ?」
「……はい」
普通のご飯を作っただけだ。恭一郎はもっと手の込んだ美味しいご飯を何度も作ってくれている。
だけど紀沙はあえて胸を張って見せた。
「恭一くんだけが頑張らなくても生活できるって思ってもらえるように、って頑張ったの」
「料理を」
「料理を。わたしが休みの日にはわたしが作るよ」
「そんなもん、俺がやるから頑張らなくていいっていっつも」
「片方だけが頑張っても」
「寂しかったって言ってんの! メシの支度くらい俺がやるから、それより一緒にいてほしいの!」
おっと。急にデレが来た。
予想していなかった紀沙は恭一郎の腕の中で固まった。
「……ごめんなさい」
「美味しかったし嬉しかったけど。でも距離置こうみたいなこと言われて俺今日までずっとびびってたんだからな」
「わたしがそんなこと言うわけないじゃん」
「そんなこと分かるかよ」
愚痴モードに入ってしまった。
「もー。わたしだって恭一くんに何かしてあげたいと思って」
「じゃあ洗濯は紀沙の係な」
「靴下は絶対拾わないから。拾って。それ。今すぐ」
「絶対いや。言ったろ。寂しかったって」
明日朝起きたら、脱ぎ散らかしたふたり分の服を拾って洗濯をしよう。
その間に恭一郎が、いつものように魔法のような手際で朝食の用意をしてくれるはずだ。
食べ終わったら休日の紀沙が片付けを任されて、仕事に向かう彼を送り出すのだ。
そう想像してみれば、結婚なんてしてもしなくても、あまり変わらないようにも思う。
キラキラした歳下の子に影響されて、今年のバレンタインは少しだけ頑張ってみた。
ミネストローネ、なんて立派なレパートリーを増やすことができたし。
彼氏は変わらない気持ちを持ち続けてくれていることを再確認することもできたし。
頑張ってみた今年のバレンタインは、なかなかいいものになった。
「本当は俺から言うはずだったのに」
ふたりで眠りにつく直前まで、恭一郎はぐちぐち言っていた。
「タイミング合わないね」
「来年のバレンタインは覚えとけよ」
「そういうとこじゃない? 思い立ったら一年も待たずに動こうよ」