7話 知らない
オリヴァーには想い人がいる。
彼以外は誰も会ったことがなく、彼ですら現在の居場所を知らないようだ。
名前も歳も姿形も全てが謎に包まれていて、本当に存在しているのかすら疑わしい人。
それでも彼の心には、確かにその人が居続けている。
エレノーラは幼少期にオリヴァーと出会い、その優しさに触れてすぐに恋をした。
だから彼に想い人がいると知った時は、あまりのショックで数日間寝込んだほどだ。
辛い事実を受け入れてからも、彼からは時々想い人について話を聞かされていた。
どこに出かけて、何を食べて、何を話したかなど。
内容までは覚えていないけれど、話している時の彼の表情だけは鮮明に覚えている。
その人のことが本当に好きで、もう会えない辛さを嘆く悲痛な表情。
彼の想いが痛いほど伝わってきて、自分の胸も苦しくなった。
オリヴァーからは、その人に心当たりはないかとしきりに質問をされ、その度に知らないと答えた。
手がかりが何も掴めずに焦っているよう。
できることなら協力したかったが、エレノーラには本当に心当たりがなく、『お役にたてず申し訳ありません』と謝ることしかできなかった。
彼の話を聞いているとなぜか懐かしい気持ちになったけれど、それはあまりに真剣に話す姿に心を打たれ、共感してしまったからだろう。
そのうち想い人の話を聞くことが苦痛になり、笑顔で聞くことができなくなった。
あからさまに暗い表情をしてしまったからだろうか。
オリヴァーが心中を察してくれたのかは定かではないが、ある日を境に想い人に関する話はピタリと止んだ。
もう聞かなくて済むのだと、心から安心した。
当時のことを思い出すと、今でも自然と涙が出てしまう。
その時はオリヴァーへの想いを忘れて潔く諦めようとした。
だけど何年経っても彼が想い人と再会することはなく、自分はまだ諦めなくていいのではないかと思うようになる。
オリヴァーと出会って十年の歳月が過ぎた。
彼の想い人への気持ちは、時が経つにつれて確実に薄くなっているように感じるから。
このまま再会することなくすっぱり諦めてくれたら。現実に目を向けて、自分のことを意識してもらえるようになるかもしれないと希望を抱く。
そのためには努力を重ねて、彼に相応しい女性にならなければいけない。
この国の王子であり、次期国王になる人の相手として不足があってはいけないから。
彼に手を取ってもらえる可能性がある限り、母から向けられる重圧や期待に押し潰されそうになりながらも頑張ってこれた。
***
エレノーラは部屋に呼びに来たケイトの声で目覚め、夕食をとるために食事室に向かった。
母はまだ来ていないようで、料理をテーブルに並べる使用人二人の姿しかない。
エレノーラは落ち着いた気持ちで席についた。
今日のことはよく覚えていないけれど、生徒代表として立派に務めを果たせたはず。
少しの期待を抱きながら背筋を伸ばして座っていると、母がやってきた。
「今日はしっかりできたようね。学園長から聞いたわ」
「はい。失敗することなく挨拶し終えることができました」
「そんなのは当たり前でしょう」
「……そうですね」
いつものように、当然とばかりの淡々とした返事。
想定はしていた。それでもたった一言聞ければ、それだけでよかったのにと肩を落とした。
目の前には豪勢な夕食が並んでいるが、少しも食欲が湧かない。
スープとほんの少しの煮込み料理を口にして夕食を終えた。
***
翌日は曇り空で、ケイトが開けたカーテンの向こうから日差しが入ってくることはなかった。
「エレノーラ様、大丈夫ですか?」
ケイトはベッドの上で力なく座るエレノーラの額に手を当てた。
「ええ、これくらいなら問題ないわ」
「ですが念のためお休みしたほうが良さそうに思いますが……」
「そんなことをしたら脆弱だと叱られてしまうわ。大丈夫よ。今日は半日で終わるし、座って話を聞いていればいいだけの授業しかないから」
「……かしこまりました」
ケイトは眉根を少し寄せたが、すぐに表情を戻してエレノーラの朝の支度を手伝った。
髪を二つに緩く編み込み、頬の赤みが目立たないように化粧を施した。
朝食は食べられる量だけを口にして、さっさと学園に向かう馬車に乗り込んだ。
昨日のように緊張する必要はないため、心穏やかでいられる。
エレノーラは馬車の中で少しだけ眠った。
学園前に到着すると、いつものように表情を作ってから馬車を降りる。
教室に入り、窓際の一番後ろの自分の席に座って窓の外を眺めていると、ナディアが登校してきた。
「エレノーラ、おはよう。……今日は休むと思ってたんだけど、大丈夫?」
彼女はエレノーラの耳元に顔を近づけ、小さな声で気遣った。
「大丈夫。さすがに新学期二日目から休むわけにはいかないから」
「そうかもしれないけど……辛くなったらちゃんと言うのよ」
「うん」
エレノーラが隣の席に座ったナディアに向けた笑顔は、いつも貼り付けている完璧な笑顔よりも弱々しい。
ナディアははぁと溜め息を吐くと、頬杖をついた。伏し目がちの表情は何かを考えているように見える。
数分後、一時限目の始まりを告げる鐘が鳴った。
教師がやってきて、黒板にサラサラと文字を走らせていく。
エレノーラはぼんやりとそれを眺めていた。
教壇に立つ人物はこのクラスの語学担当の教師ではなく、代理の教師だということには気づいていない。
文字が黒板を埋め尽くすと、教師は教科書片手に説明を始める。
説明の合間に問題を出し、生徒を指名していった。
この教師はやたらと指名することで有名だったが、窓際の席の一番前から順に当てられていることや、ナディアが視線で何かを訴えていることに、エレノーラは全く気付いていない。
「では次、ティレットさん、ここの翻訳をしてください」
エレノーラの前の席の男子生徒が当てられ、彼が答えたすぐ後に彼女の名が呼ばれた。
眉をひそめて心配するナディアをよそに、エレノーラは慌てることなくすっと立ち上がり、教師が指差す文字をじっと見た。
「こちらでゆっくりお寛ぎください。お飲み物を用意いたしますが、何かご希望はございますか。です」
「はい、よろしい。少し難しいかと思いましたが、噂通りさすがですね」
少し低い声で滞ることなく訳したエレノーラは、静かに着席した。その顔に表情はない。
その後はもう当てられることなく、鐘の音と共に一時限目が終了した。
ナディアはすぐに立ち上がり、教室から出ていった。
二分ほどして戻ってくると、エレノーラの手を強引に引いて五つ隣の部屋へ。
王族の護衛の待機部屋であるその部屋には、四人掛けのテーブルや応接セットがあり、オリヴァーと彼の護衛二人、そして垂れがちの水色の瞳に癖のある金髪の男子生徒がいた。
「おはようございます。オリヴァー様、クリフ様」
エレノーラはこの場所に連れてこられたことに疑問すら抱かず、待ち構えていた王子と公爵家の令息に静かに淡々と挨拶をした。
その姿にオリヴァーは複雑そうに眉尻を下げる。
「エレノーラ、そこに座って目を閉じて」
「はい」
オリヴァーがソファーを指さしたので、エレノーラはすぐに向かって腰かけた。
目を閉じると額にひやりとしたものが触れた。
エレノーラは驚きもせず、ただじっと座っている。
「無理してはいけないよ」
オリヴァーはボソリと呟き、両手から光を出した。
彼の力は病を全て治すことはできないが、気疲れからくる発熱や倦怠感程度なら取り除くことができる。
昨日から感じていた熱っぽさと気怠さがなくなったエレノーラは、体の力が抜けてソファーに横たわった。
オリヴァーは護衛の一人に目配せをする。
すぐに手渡されたひざ掛けをエレノーラにかけると、寝息をたてる穏やかな顔を愛おしげに眺めた。
「さて、どうしようか。このままずっと放っておいたら泣いてしまうかな」
「そりゃ、授業をサボることになったら確実に泣くでしょうよ」
「本当はしっかり寝かせてあげたいけど、起きた時が可哀想よね」
「だよね」
結論がすぐに出た三人は、予鈴が鳴るまでソファーの前でしばらく語らっていた。
クリフもエレノーラとは幼少期からの付き合いであり、この四人は幼馴染みのような関係。
「ねぇ、あなたはまだこの子を選ぶつもりはないのかしら?」
ナディアは高圧的な口調でオリヴァーに言い放つ。
相手が王子だというのに物怖じすることなく、軽く睨みつけた。
幼少期から二人を見守ってきた彼女は、お互い友人以上の想いを寄せているとしか思えない二人の関係がもどかしくて、苛立って仕方がない。
オリヴァーはナディアの態度に少しも不快感を見せないが、答えにくそうに眉尻を下げた。
「そうだね。私は今は誰との将来も考えていないよ」
「探し人が見つかったとしても求婚する気はないんですよね?」
「そのつもりだよ」
「それならどうしてエレノーラさんを選んであげられないんですか?」
クリフもナディアほどではないが、オリヴァーを追い詰めるように低く冷たい声で言い放った。
彼もナディアと同じように、二人が早く結ばれてほしいと願っていた。
親友が幼い頃から大切な誰かを探していることは知っているが、そろそろいい加減諦めて現実を見るべきだと思っている。
二人からの厳しい言葉に、オリヴァーは泣きそうな顔をした。
「それでもきちんと幸せかどうか確認したいんだ。私だけ幸せになることは許されないから」
彼はこの話題になると、いつもの堂々とした姿からは想像もつかないような弱々しさを見せる。
そんな表情をされてしまっては、二人はもう何も言えなくなってしまう。
重い空気に部屋の中はしんと静まり返った。
程なくして予鈴の鐘が鳴り、ナディアはソファーで眠るエレノーラに近づき、上から覗き込んだ。
「エレノーラ起きて。教室に戻るわよ」
肩を揺らされたエレノーラはゆっくりと目を開けた。
ほんの数分眠っていただけだが、頭はすっきり冴え渡っている。熱っぽさと気怠さもない。
上体を起こして座ると、目の前の三人と後方にいる護衛騎士二人が目に入った。
この場所に来たことがあるエレノーラは、部屋の壁紙やカーテン、家具などから、ここがどこかを把握する。
(ここは……オリヴァー様の護衛の方々の休憩室のようだけど……えっと……)
そんなところでなぜ自分は横になっていたのか。
エレノーラには馬車を降りてからの記憶がほぼない。
教室でナディアと朝の挨拶をしたところまではうっすらと覚えていて、そこからつい今しがたまでの記憶が抜け落ちていた。
「さて、そろそろ戻らないと」
「今から魔法学の講義のため移動しなければいけません。本当に急ぎましょう」
「そうだね。それでは私たちは先に失礼するよ」
「っ、はい。行ってらっしゃいませ」
エレノーラは現状を把握できていないが反射的に返事をして、部屋から出ていくオリヴァーとクリフを見送った。
「さ、私たちも教室に戻るわよ」
「えっ、と……うん」
ナディアから急がなくてはいけない雰囲気を感じ取り、素直に返事をして後をついて行く。
教室について自分の席に座ると、ほんの少し眉を吊り上げたナディアが上から覗き込んできた。
「もう辛いところはない? 休むことはいけないことじゃないんだから、我慢せずに言いなさい」
その言葉で、そう言えば自分は体調が悪かったのだとエレノーラは思い出した。
「ずっと熱っぽかったけど今はもう大丈夫よ。……ねぇナディア、もしかしてオリヴァー様が癒してくれたのかしら?」
「そうだけど……やっぱり覚えていないのね。そんなになるまで頑張ろうとしちゃダメ。約束よ」
「っ、うん。分かった」
エレノーラは先ほどより更に眉を吊り上げたナディアに両頬をそっと掴まれた。
おでこをコツンと重ねながら忠告され、申し訳なくて泣きたくなる。
しかし今は教室の中で、もうすぐ授業が始まってしまう。
泣くわけにはいかないと、グッと歯を食いしばって耐えた。
(後でオリヴァー様にきちんとお礼を言わなきゃ……)
幼少期から事あるごとに自分を癒してくれる彼の姿を思い浮かべると、胸が苦しくなった。
オリヴァーは男女問わず誰とでも気さくに接するため、どれだけ優しくされようとも自惚れてはいけないと分かっている。
それでもエレノーラは彼と特別仲がいい方で、いつも気にかけてもらっていると自負している。
(迷惑をかけてばかりじゃいけない。しっかりしないと……)
もうすぐ訪れるであろうその時を思い、エレノーラは唇を引き結んだ。