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5話 憧れの人

 十七歳のエレノーラは王侯貴族の令息、令嬢が通う高等学園に通っている。


 長い休みが明け、最終学年である三年生となった本日。

 エレノーラは学園へ向かう馬車に乗り、青い顔で項垂れていた。


「もう嫌……今すぐ溶けてなくなってしまいたい……」


 二つに分けて編み込まれた紫紺の髪は、力なく座席に座るエレノーラと同じように右へ左へ揺れ、膝の上で握りしめた両手は小刻みに震えていた。


 今日だけは学園に行かなくて済む方法を模索しては、母の怒声を思い浮かべて身を縮めた。

 そうして無情にも馬車が学園に到着すると、目を閉じて深呼吸を繰り返す。


(大丈夫……大丈夫……)


 心を落ち着けるため、まじないのように繰り返す。


 スッと目を開けて表情を作り終えると、外から馬車の扉が開けられた。

 エレノーラは横に置いていた黒い手提げ鞄を左手に持ち、御者に差し出された手を取った。


「行ってらっしゃいませ、お嬢様」

「ええ、行ってくるわ」


 馬車から下りて御者と軽く言葉を交わし、学園の門をくぐった。

 ここに通う生徒は皆、学園指定の制服を身に纏っている。

 男女共に藍色を基調としたブレザータイプの制服は、上質な生地に金の装飾が施されたもの。

 女生徒は膝下丈のスカートに黒いタイツ、胸元にワイン色のリボンを着け、男子生徒はネクタイを着けている。


 門から学舎へ続く歩道は、白と灰色のタイルが交互に敷き詰められており、手入れの行き届いた花壇には青、白、薄紫色と、上品な色合いの花が咲き誇っている。


 堂々と背筋を伸ばしながら淑やかに歩くエレノーラは、他の生徒たちからの視線を一身に浴びていた。


 誰も彼もが憧れと尊敬の気持ちがこもった目をしていて、新入生たちから向けられているのは一際食い入るような視線。

 その瞳はキラキラと輝いている。


(……もう無理)


 エレノーラは口元がひくつきそうになりながら、どうにか笑顔を張り付けたまま学舎内に入った。


「エレノーラ様っ! おはようございます。今日から同じ教室で学べるなんて夢のようです!」


 教室に入ると、さっそくブリジットがふわりとした桃色の髪を揺らしながら興奮気味に話しかけてきた。

 その勢いに気圧されたエレノーラは仰け反りそうになったが、後ろ足に力を入れてどうにか耐えた。


 この学園では学年ごとに三つのクラスに分かれている。

 一年生、二年生の時は爵位順に分けられていたが、最終学年である三年生では爵位関係なく、選択科目によってクラス分けされる。


 ブリジットは子爵家の娘でありながら、魔法騎士として王宮に務めることがすでに内定している。

 そのため、魔法学の授業以外は憧れのエレノーラと同じクラスになれるような科目を多く選択した。


 それとなく探りを入れてきたブリジットの思惑は本人にバレバレだったが、こうやって同じクラスに気さくに話しかけてくれる人がいることはエレノーラにとって嬉しいことだ。


「おはようございます。こちらこそ気心の知れた方がいらして嬉しいです」


 エレノーラは先ほどから貼り付けていた微笑みではなく、本心からの笑顔をブリジットに向けた。


「はわっ……気心だなんてそんな、恐れ多い……けど嬉しいぃ……」


 ブリジットは独り言のようにブツブツと呟く。

 真っ赤に染まった頬を両手で隠し、左右にくねくねと揺れた。

 可愛らしい反応に、重苦しかったエレノーラの気持ちは少しだけ軽くなる。


「では、私は準備がありますので、先に向かいますね」

「はっ、はいっ! 行ってらっしゃいませ。エレノーラ様の勇姿をしかとこの目に焼き付けますのでっ!」

「ふふ、ありがとう」


 エレノーラは口元を手で隠しながら目尻を下げた。

 立ち話をしていたため、手に持っていた鞄を自分のロッカーに仕舞い、自分の席に一度も座ることなく教室から出ていった。


 向かう先は校舎横に建つ大ホール。


 そこで三十分後に執り行われる入学式で、エレノーラは生徒代表として祝辞を述べなければいけない。

 事前打ち合わせのため大ホールの控室の扉をノックして中に入ると、一人の女生徒が椅子に座っていた。


 腰まで長さのあるミルクティーブラウンの長い髪に、優しげな垂れ気味の黒い瞳。

 長期休みの間は会えなかった親友の姿が目に入った途端、安心感が込み上げてきたエレノーラの視界はじわりと滲んだ。


「おはよう。気分はどうかしら──……って聞くまでもなさそうね」


 エレノーラの親友であるナディアは眉尻を下げながら苦笑いし、部屋に入ってすぐに立ち尽くしたエレノーラに歩み寄った。

 ポケットからハンカチを取り出して、今にも流れ落ちそうな涙を優しく拭う。


「こら、今泣いちゃダメでしょ。せめて終わってからにしなきゃ」

「うぅ……ナディアぁ」


 エレノーラは優しく叱責されて顔をくしゃりとさせた。

 再びじわりと滲み出てきた涙は、すかさずナディアが拭ってくれる。


「今すぐ溶けてなくなりたい」

「そうね。でもそうしたらもう一緒にお喋りできないわ。たった数分間頑張ればそれで終わり、あっという間よ」

「うぅぅ……数秒がいい……」

「感覚的にはきっと数秒よ」


 ナディアはポロポロ涙を溢すエレノーラの背中を優しくなでる。


「しっかりしなさい。ほら、いつもみたいに気持ちを整えて」 

「……うん」


 言われるがまま息を吸い、深呼吸する。

 大丈夫、大丈夫。

 どうにか気持ちを落ち着けていると、後方の扉がコンコンと音を立てた。


 入ってきたのは背の高い男子生徒。

 男性にしては少し長めの髪は雪のように白い。光の加減で銀色にも見え、神秘的な輝きを放っている。


 そこにいるだけで場の空気が清浄化されるような、不思議な存在感の持ち主だ。


「やぁ、おはよう」


 この国の第一王子であるオリヴァーは、右手を軽く上げて美しい顔に爽やかな笑みを浮かべた。

 エレノーラが俯きがちにゆっくりと振り返ると、彼の新緑のような瞳と視線が重なった。

 久しぶりに会えた憧れの存在。この部屋でナディアの姿を見た時とはまた違った感情が込み上げてくる。


「…おはようございます。オリヴァー様」


 瞬時に涙を引っ込めて挨拶を返す。


「やっぱり泣いてた」


 不意に眼前に伸ばされた手。

 細く長く美しい指から滲み出てきたのは温かな白い光だ。


(いつ見ても優しくて綺麗な光……)


 不思議と眩しさを感じない淡い光をじっと見つめ、エレノーラは目を閉じた。

 今から何をされるか分かっているので怖くはない。


 オリヴァーが放っているのは稀少な光魔法。

 治癒の光によってエレノーラの右目、左目と順に光を当てる。彼女の目の周りの赤みが引いたことを確認すると、唇に弧を描いた。


「これでよし、と。さすがに今日はいつも以上に緊張するだろうけど、一緒に頑張ろう」

「ありがとうござ────……います。精一杯、務め、ます……」


 エレノーラはお礼を口にしながら目を開けたが、あまりに近い美しい顔に驚いた。

 目を逸らして頬を染める様子に、オリヴァーは慈愛に満ちた表情を向ける。


「そろそろ練習したらどうかしら」


 二人のやり取りを後方で静かに見守っていたナディアだが、甘ったるい空気をかき消すように両手をパチンと鳴らした。

 その音でエレノーラはハッとなり、懐から四つ折りの紙を取り出した。


 今からこれを大勢の前で読まなければいけない。


 そう思うと、体がカタカタと震えてきた。

 緊張でどうにかなりそうだが、オリヴァーの『一緒に頑張ろう』という言葉を胸に自分を奮い立たせる。


 控室での練習を終えると、三人は移動を始めた。

 オリヴァーには部屋の扉の外で待機していた護衛騎士二人が付き従う。


 大ホールの舞台袖。

 エレノーラが厚手の赤いカーテンからほんの少しだけ顔を出して様子を窺うと、何列にも並べられた椅子に座る全校生徒が一望できた。


(こんな大勢の前で話さないといけないなんて……)


 間近に迫る出番にカーテンを掴む手が震える。


 この学園では三年生から選ばれた生徒代表が、行事事を取り仕切らなくてはいけない。

 生徒代表は立候補や推薦により、最も相応しいとされる人物が選ばれる。


 エレノーラは多数の生徒から推薦されただけでなく、母からも推薦されてしまった。


 本来なら個人の意志を尊重して任命される役職なはずなのに、学園長と親しい母が娘をゴリ押ししたことにより、退路を断たれてしまった。


 まだ任命を受ける前の段階で、『私には荷が重いです』と泣きながら母に抗議したが、『あなたのためにしたことよ。それにせっかく頼み込んであげた私の顔に泥を塗るなんて許しません』と一蹴されてしまった。


 母はエレノーラを散々叱責した後、いつもお決まりの言葉を言う。


 ────これはあなたのためなのよ。あなたが強く生きていくために必要なこと。あなたの幸せを思ってのことなのだから。


 エレノーラはこう言われるといつも、幸せとは何だろうと考える。

 幸せになるために必要な、辛い経験が多すぎるのはなぜだろうと。


 しかし貴族の娘として堂々と振る舞わなければいけない場面はいくつもある。

 そういった時に動じることなく、凛としていなければいけない。家族に恥をかかせてはいけないと、自分でも分かっているから。


(だけど、いつまで経っても慣れやしないのに……)


 場数を踏んだところで少しも度胸はつかない。

 失敗しないよう、表面上を取り繕えるようになっただけ。


 そして上手くできたからといって、家族は誰一人として褒めてはくれない。


 人から向けられる期待や与えられる役目は歳を重ねるにつれて大きくなっていく。

 後からくる反動も大きくなる一方で、気疲れで寝込んでしまうことだってある。


 それでも家族は呆れるだけで、誰一人として心配してくれない。



「エレノーラ、やっぱり話すの代わろうか?」


 ナディアが心配そうにエレノーラの顔を覗き込んだ。

 彼女は生徒副代表。今日はエレノーラの隣に立っているだけで一言も話す予定はない。

 そういう習わしである。


「大丈夫。これは代表である私の役目だもの。ナディアは隣にいてくれるだけで心強いから」

「そう……」


 ナディアは静かに心得た。

 エレノーラはこうと決めたことは決して曲げない。心は弱いが意志は強い。


 ナディアはそれを理解している。本人が頑張ろうと決めたのなら、もう何も言わずに見守ろう。万一の時は全力でサポートしようと決めた。


 舞台上では学園長の挨拶がまもなく終わろうとしていて、エレノーラは青い顔をして溜め息を吐いた。

 刻一刻と近づく出番に吐き気を催していると、斜め後ろにいたオリヴァーから肩をポンと叩かれた。


「それでは、先に行ってくるよ」


 彼は爽やかにそう告げると、つい今しがたまで学園長がいた場所へと軽やかに歩みを進めた。




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