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1話 気弱な侯爵令嬢

 侯爵家の娘、エレノーラはいつも同じ夢を見る。


 黒髪の男性が森の小さな家に会いに来る夢。


 男性の緑色の瞳は、若葉が芽吹く春の森のように穏やかで、優しくそっと笑いかけられると、胸が締めつけられるような感覚になった。


 夢はいつも断片的で朧気。順序はバラバラで、切り繋げたようなものが繰り返される。


 優しく微笑む次の場面では、男性は険しい顔で大剣から炎の斬撃を放った。


 彼女の体は炎に包まれて、服が焼け落ちていく。


 普通の人間など一瞬で消し炭になるほどの業火に包まれているのに、体は少しも熱さを感じない。


 それでも他人から向けられる敵意に恐怖で体は震え、泣きながら謝罪を繰り返した。


 場面はすぐに切り替わり、激しく狼狽える男性の姿がぼやけた視界に映る。


 涙を流して何かを叫んでいるのに何一つ聞き取ることができないのは、もう何も聞きたくない、心に何も感じたくないと願ったから。


 無音で何もない世界が広がって、白い沼に沈んでいった。


 辛い記憶も幸せな記憶も何もかもいらないと、全て心の奥底へ深く深く沈めて。もう二度と浮き上がってこないようにと願った。


 次こそはもっと自由に生きられたなら、幸せになれたなら。淡い願いを込めて来世に希望を託した。






 ***






 朝目覚めると、涙が一筋流れていた。


 もう何度目だろう。

 エレノーラは同じ夢を見ては、泣きながら目覚めてを繰り返している。


 内容は少しも覚えていない。残っているのは辛く悲しい感情だけ。


「……はぁ。今日は頑張らないといけないのに……」


 ただでさえ憂鬱な気持ちが余計に沈み、袖で涙を拭った後はベッドの上で膝を抱えた。


 しばらくすると、静かな部屋にノックの音が響き渡った。


「どうぞ」


 エレノーラが小さな声で入室を許可すると、赤髪の若い女性が入ってきた。


 焦げ茶色のお仕着せに身を包んだボブヘアーの女性は、エレノーラの専属メイドであるケイト。


 彼女はエレノーラの顔を見ると、いつものように眉尻を下げて苦笑いした。


「おはようございますお嬢様。朝からそんな死にそうな顔をしないでくださいよ」


 ケイトは呆れて目を細めながら、優しい声音で遠慮のない物言いをする。


「……おはよう。仕方ないじゃない、だって今日は……うぅ……」


 弱々しく呟いて、また膝に顔を埋めたエレノーラを横目に、ケイトはカーテンを勢いよく開けた。


 薄暗い部屋に窓から差し込む光が広がり、室内が一気に明るくなる。


 外は見渡す限りの青空で、庭木の葉を揺らす風は穏やか。


 野外で気持ちよく過ごせそうな最高の天気は、今のエレノーラにとってはこの世の終わりのような最悪の天気である。


 望んでいた正反対の空模様にエレノーラは肩を落とし、体から苔が生えてきそうなほどじめじめと湿った空気を漂わせた。


「たとえ雨だったとしても、場所が庭園からサロンに変わるだけではありませんか。外出できないほどの暴風雨にならない限り、中止にはなりませんよ」


 エレノーラから発せられる重苦しい空気を吹き飛ばすよう、ケイトはカラリとした明るい声を発した。


 それでもエレノーラの暗い表情は変わらない。


「でも……壁に囲まれたサロンの方がまだ声が通りやすいでしょ。外だといつも以上にしっかり声を張って話さないといけないじゃない……」


「はいはいそうですね。でも頑張るしかありませんし、お嬢様なら大丈夫です。ほら、顔を洗ってきてください。朝食の時間に遅れてしまいますよ」


 膝を抱えたまま動こうとしないエレノーラは、ケイトに腕を掴まれてベッドから下ろされた。


 洗面室の方へ背中をトンと一押しされると、重い足取りで前方の白い扉に向かった。


 洗面台の前に立ち、蛇口から出る冷たい水で顔を洗ってタオルで拭き上げる。


 少しだけ気持ちが引き締まると、鏡の中の自分を見つめた。


 鏡に映っているのは、母譲りの美しい顔立ちの17歳の少女。


 長いまつ毛に縁取られた切れ長の目は知的に見え、侯爵家の娘という肩書きに相応しい風格が漂っている。


 いつも弱音を吐き、めそめそと泣いてばかりだなんて誰も思いもしないだろう。


「大丈夫……いつものようにすればいいだけ。上手くやれるはず」


 不安げに揺れる青い瞳に、どうにか強い意志を灯して言い聞かせた。


「…………はぁ」


 大丈夫だと言い聞かせてみたが、やはり不安が募る。大きな溜め息が出てしまい鏡の前で項垂れた。


 腰まで長さのある紫紺の髪がさらりと前に落ちる。



 部屋に戻ると、簡素だけれど上質な生地の藍色のワンピースが用意されていた。


 手早く自分で着替えを済ませて、鏡台の前に座った。


 すぐにケイトが後ろに立ち、エレノーラの髪を櫛で丁寧に梳いていく。


 二つに分けて緩く編み込みに。エレノーラは艶のある美しい髪にはっきりとした目鼻立ちの美人であるため、近寄りがたさが緩和される優しい印象に仕上がる。


 いつもの髪型に仕上げたケイトは、鏡越しに笑いかけた。


「お嬢様は微笑みながら佇んでいるだけで、誰よりも美しく気品に溢れています。だから大丈夫ですよ」


「……ありがとうケイト。頑張るわ」


「その意気です。さぁそろそろお向かいください」


 ケイトから本日分の激励をもらったエレノーラは、朝食をとるために部屋を出た。



 長い廊下にいくつも飾られた、彩り豊かな花や風景が描かれた絵画。

 それらに一切目をやることなく、俯きながら歩き進める。


 一歩踏み出す度に小さな鉛が蓄積されていくように足は重く、息苦しさを感じる。


 今にも倒れてしまいそうになりながら、このままいつまでも廊下が続けばいいのにと願い、それでも辿り着いてしまった扉の前で深呼吸する。


(────……よし)


 気弱そうな表情から一変、凛とした表情を作り出す。


 姿勢を正して食事室に入ると、すでに母が席に着いていた。

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