13.やや難ありの仲居さん
凪の大海亭――。
風で回る回転看板には、そう記されている。建物は木造で、外壁はかなり老朽化しているように思える。まるで亡霊でも出そうな雰囲気だが、見るからに安そうでもある。
煙草を地面で踏み消してから温泉宿の扉に手をかけたダリウスが、ガタガタと前後にそれを揺らした。
「閉まってやがら」
「横開きだよ。エイラの温泉宿は大体そうだ。東の方の影響かねェ。あっちは温泉の本場だから」
「へえ?」
ダリウスが扉をそっと横にずらす。ガラガラと音を立てて開いた。
中は――……ぼんやりとした薄明かりの中央に受付があった。そこには中年の女がひとり、肘をついて座っている。
ダリウスたちに気がつくと、女は顔を上げた。
「おや、お客さんか。いらっしゃいませ」
「ふたりだが、宿泊できるか?」
「部屋ならどこでも空いてるよ。それほど広い宿じゃないけど、エイラでは歴史が古い方さ。――ああ、待った、そこで靴を脱いで棚に置きな」
片足を上げていたダリウスが、ぴたりと停止する。
「すまないね。他は知らないけど、この凪の大海亭じゃ温泉地の本場に倣うんだ。よしよし。じゃあ次はここに名前を書きな」
老婆のようにしわがれた声を出して、女が紙を一枚、カウンターに置く。
歴史が古い。まさか開拓時代からの老舗宿か。高そうだ。
ダリウスは鼻白む。
「ああ、その。実はあまり持ち合わせがない。先に値段を尋ねてもいいか?」
「もちろん。うちは一泊二食つきで銀貨一枚だ。これでもエイラじゃかなり安い方さ」
ダリウスの伺うような視線に、ロットナーがうなずいた。
「先ほどメイン通りにあるいくつかの宿に描かれていた値段を見ながら歩いてきたのだが、確かにここが一番安い」
「立地的に、客の目に入らない場所に建ってるからね。でも、おかげで温泉の広さだけはどこにも負けないよ。むろん入り放題。追加料金はナシだ。何なら女の子呼んでどんちゃん騒ぎしてくれたって構やしないよ。あたしがもう少し若ければ、遊んでやってもいいんだけどね」
ダリウスが笑って返す。
「いいじゃねえか、ロットナー。ここにしようぜ」
「そうだね。ああ、ペンを貸してくれたまえ、女将」
「はいよ」
ロットナーが羽根ペンを受け取り、紙に名前をふたり分書いた。もちろんダリウスの家名はニセモノだ。マヌケな本人に書かせたら、彼は本名を記してしまうから。
女将がうなずく。
「よしよし。――レニ! レーニー! お客さんだ! ご案内しな!」
女将がカウンターから身を乗り出して廊下の奥の方へと叫ぶと、向こう側からトトトトと、小さな足音が聞こえてきた。
「はぁ~いっ」
四足だ。両手を前脚のように使う少女が駆けてくる。柔らかに揺れる肩までの髪からは、猫の耳のようなものが生えていた。
ロットナーが女将に尋ねる。
「ケット・シーかい?」
「そうだよ。孤児院から買い取ったのさ。あそこも余裕がないからねえ。それに獣人なら賃金が安く済む。その割に人間より力があるし、素早く動ける。ちょいと不器用なところに目をつむれば、場末の宿にゃいい従業員さ」
レニと呼ばれたケット・シーの少女が、後脚――いや、足を滑らせながらダリウスの前で止まった。顔は愛らしい少女のものだが、やはりどこか猫のようにも見える。服装がまた変わっていて、布をいくつも重ねて縫ったような、前開きのひらひらとした姿だ。
「旦那ぁ、お荷物ちょーだ」
「あ? ああ、俺は剣しかねえや」
そう言って差し出すと、レニはパクリと鞘ごと口に咥え、すっくと立ち上がった。
女が苦笑いでつぶやく。
「多少仕草に難ありだけどね。可愛らしいもんだろ」
続いて彼女はロットナーの革袋を両腕で抱え込んだ。
「運びま~す」
立ってわかった。身長がやたら低い。それこそシエルと同じくらいだ。抱えたロットナーの革袋がやたら大きく感じられる。
それでもエルフのシエル同様に、別種族の年齢など見た目からはわからない。
「レニ、鷹の間までお連れしな」
「ふぁ~い」
女の言った通りだ。やたらと大きな荷物を両腕で抱えても、レニは板張りの廊下を普通に歩いている。特に重さは感じていないようだ。足取りも軽い。
ロットナーと目を見合わせてから、ダリウスは彼女のあとに続いた。
館自体はさほど広くはない。しばらく歩いて角を曲がると階段を上がる。そこからすぐ。廊下左手側にあった横開きの扉を、両手の塞がっていたレニは器用に足で開いた。
ダリウスが「ほう」と口を尖らせる。
「へえ? 藁を編んで作った床かよ。変わってんなァ。剣奴時代を思い出すぜ」
ロットナーがぶはっと噴き出した。
「藁だけじゃないよ。周囲はい草って植物で作られてるんだってさ。畳という床だ。さすがに作り方までは私も知らないが」
「なんだよ。人を笑ったくせに、賢者が聞いて呆れるじゃねえか」
「ふっ、これは反論できないねェ。――レニくんは詳しいのかい?」
レニがロットナーの荷物を下ろしてから、咥えていた剣をソードラックに立てかける。
「レニ、わかんない。でもいいニヨイだっ。お日様みたいっ」
ダリウスが犬のように両手をつけて、鼻を近づける。
「確かになあ。よく眠れそうだ」
「な? レニ、これすき」
レニはにっこにこだ。
「あ。お客、温泉入る? ご飯が先か? それとも、レ・ニ?」
「最後の選択肢がとても気になるけれど、さっき魚を食べたばかりだし、とりあえずは温泉かな。旅の汗を疲れとともに流そうではないか。それでいいかい、ダリウス」
ダリウスは窓から身を乗り出すようにして温泉街の景色を眺めていた。元教会の孤児院も、町を縦断するせせらぎも、魚を買わされた露店まで見えている。
そのうち一カ所を目を細めながら凝視していたダリウスが、振り返りもせずに言った。
「俺はどっちでも構わんぜ。空腹には二十年前から慣れてんだ」
「あい。わかったー。おふたり、温泉ご案なぁ~い」
そう告げると、レニは再び両手を前脚のように使って、トトトトという小さな足音を立てながら猛スピードで廊下へと出ていった。
その小さな背中が消えるのを見てダリウスは思った。
案内の意味知ってんのか……あの猫……。
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