田中さんの前髪
クラスのマドンナである田中さんの前髪は鉄壁だ。雨の日も、台風の日も、田中さんの前髪が崩れることは無い。例え天変地異が起ころうとも、田中さんの前髪が風になびくことはないのだろう。男子の間では、田中さんの前髪の秘密について盛り上がることが多々ある。実に平和な学校である。
ある初夏の日、プールの授業が行われた。男子は盛り上がった。しかしそれは、決して女子の水着が見れるからでは無い。田中さんの前髪の秘密を暴けるかもしれないと考えたからである。水に浸かってしまえば、流石のあの前髪だって、他のみんなの前髪のように風になびくようになるのではないか。そんな期待を込め、僕を覗いた男子全員が、教室で、着替えを終えて帰ってくる女子、主に田中さんをそわそわと待っていた。
「いや~、あっついねえ。」
「それなあ、ずっとプールでいいんだけど?」
「それもそれで嫌だけどね〜。」
他愛もない話をしながら、教室に入ってきたのは、上から田口さん、川田さん、田中さんだ。苗字に全員田がつくからという理由で仲良くなった三人は、このクラスのトップ集団で、移動教室や昼食を共にする仲だった。そう、その田中さんが教室に来た。
男子全員が、田中さんの声で反射的に後ろを振り向く。
「いやなんでだよ!?」
クラス一のお調子者、原井が、クラス男子全員の声を代弁するかのように、そしてまたお笑いのツッコミでもするかのように、片手をビシッと田中さんに向けた。
それを皮切りに、クラスの男子がどよめき出す。もうお分かりだろうが、田中さんの前髪は、いつも通りの鉄壁だった。田口さんも川田さんも、髪の毛は水で湿っており、プールの授業をしてました感があるのに対して、田中さんは…
田中さんもプールあがりだ、確実に。だって、後ろのポニーテールは濡れているのだから。
「田中、お前プールの授業見学してた訳じゃあないよな…?」
にわかに信じ難いと思ったのか、原井が田中さんに問いかける。その表情は引き攣っているのがまた面白い。
「別に原井に関係ないっしょ。…入ったけどさ!」
「原井のことだから美月の前髪狙ってたんでしょ~」
「予想通り!美月!お昼奢りよろしくー!」
なんと、田組(男子が勝手に名付けた田中さん、田口さん、川田さんのグループ名。当人に対してそれで呼んだ原井がキレられたので裏での呼び方。)の3人には全てがお見通しだった。おそらく、田中さんの前髪を見ようと画策していたかどうか賭けをしていたのだろう。
「あんたたちさあ、私の前髪なんてどうでもいいでしょーが。ね、竹田も思うよね。」
いえ、どうでもよくありません。あなたの前髪の秘密が気になって夜も寝れません。というのは冗談だが。
「そうだよな、みんなガキすぎるぞ~」と田中さんに共感しておいた。男子からのブーイングはスルーだ。
「どうでもいいとかひっど。」
「嘘です、すみません。気になります。」
拗ねる田中さんに、じゃあ一体なんて答えればよかったのかと項垂れる。
そんな僕達二人の掛け合いに、田口さん、川田さんを始め、ぞろぞろと帰ってきた女子がケラケラと笑う。
田中さんはその様子に満足したのか、してやったりという顔を僕に向けてから席に着く。彼女の席は僕の後ろだ。
あまり男子と一対一で話さない田中さんと唯一仲の良い僕は、クラスの男子から妬みの視線を受ける。どうだ、羨ましいだろうと、優越感に浸りながら授業開始のベルを聞いた。
事の始まりは入学式、3ヶ月ほど前に遡る。
僕は陰キャだ。クラスのヒエラルキーがあったとしたら、下の中くらいか。そんな微妙な立ち位置の僕が何故田中さんと仲良いのか。実は“田“繋がりだけではないのだ。
お互いの秘密を共有する、特別な仲だったりする。
入学式そうそう、田中さんこと田中美月さんはマドンナの地位を確立していた。ひときわ目立つ、目鼻立ちの整った田中さんは、一言で言ってしまえば正統派美人だった。凛とした立ち振る舞いから育ちの良さを感じる田中さんは、その後すぐ、いい意味で期待を裏切った。
「え、てか私たち3人みんな苗字に“田”がついてるくね?」
「マジだ!うぇーい、よろしく~」
「うっそ!美月そんな感じ?学級委員長タイプかと思ってたわ!」
上から、田口さん、田中さん、川田さん。既にあらゆるところでグループが確立されており、その中でも一際目立つグループが、その3人であった。初動から出遅れた僕は、その会話を1人自分の席でこっそりと聞いていたのだった。
入学式後、各クラスごとに簡単なホームルームが行われ、その日は解散となった。この後特に予定もなかった僕は、いの一番にとはいかないまでも、早々と教室を後にしたのだった。
しかし、どういう訳か、それは僕の前に現れた。
入学早々忘れ物をした僕が、ふんふんと鼻歌を歌いながら教室に戻るべく階段をのぼり、教室前に着いた時だった。
「何だこれ。」
真っ黒な、毛の塊。
塊と言っても、切られた髪の毛が散乱してるわけではなく、同じ方向に切りそろえられ伸びていた。
「うーん、と。」
どうしようかと立ち止まり少し考える。普段なら無視して通り過ぎるところなのだが、本当に何故か、この日は違った。
そっと髪の毛の塊の一部を持ち上げる。すると、その塊が全て持ち上がり、これがくっついているものだと察する。
「え、固くない?ごみ?ではない?」
その髪の毛にはクリップのようなものがついており、この髪の毛が着脱式であり、更にそれが前髪であることを瞬時に理解した。こういうものがあることは、姉の影響で知ってはいた。
さて、どうしたものか。
僕のクラスの前に落ちているってことは、このクラスの人の…でいいのか?
僕のクラスは突き当たりにあるため、用のない人がここへ立ち寄り落としていくことはそうそうないだろうと考察する。なんだか探偵気分になった僕は、この前髪の主を探すことにする。
「真っ黒な髪の女子…といえば、とりあえず田中さんか。」
学校のマドンナをまず一番に思い浮かべることは自然なことだろう。他には、と考えていると、猛スピードで階段を降りてくる大きな足音が聞こえた。
「ギャー!」
大絶叫。その声とも言えない声の主は、…田中さん(仮)だった。多分田中さん。
いやだって。田中さんって、こんなに前髪短かったっけ。
思考が半分停止した僕の手から、勢いよく前が飛び出していく。正確には、田中さんがぶんどった。
「どうしたらたった10秒の間に見つかるわけ!?」
「えっと?」
いまいち状況が把握出来ていない僕などお構い無しに、「なんでなんで!」と怒りの声をぶつける田中さんは、なんだか幼く見えた。
「えーっと、その前髪、田中さんの?でいいのかな?」
状況を理解しようと、とりあえず聞いてみる。
「うっさい!こっち見んな!!」
チークなのか、それとも羞恥なのか、うっすらピンク色の田中さんの頬。眉毛のかなり上で斜めに切りそろえられた前髪。そして、ニキビひとつないぺかぺかのおでこ。
僕がまじまじと見てるのに気づいたのか、「だから見んなって!!」と叫び、後ろを向く田中さん。次にこちらを向いた時は、入学式やホームルームで見た田中さんに戻っていた。
「おでこ可愛いよ?」
「…はあ!?」
いや間違えた。短い前髪も似合ってるよと言いたかったのだ。これじゃあセクハラだ。訴えられたら負ける。
「いや!違くて!おでこ綺麗だから出さないの勿体ないなって思っただけ!!」
あまり訂正になってない訂正を必死に発する僕は、きっと田中さんよりも顔が赤いのだろうなと恥じる。
「…朝前髪切りすぎたの。だからこれつけてた。」
前髪を両手で押えながらそう呟く田中さんは、美人と言うよりは可愛く、思わず見とれてしまう。ぽーっと黙る僕に、彼女はさらに言葉を発する。
「屋上空いてるかなってそこの階段登ってたら違和感に気づいてすぐ戻ってきたの!そのたった10秒の間になんであんたいんの!」
「もし!もしこのこと誰か一人にでも言ったら、あんたのことセクハラで訴えるから!!」
「分かった!?」と、早口でまくしたて僕に詰め寄る田中さんからふわりと香る花の香りは、またぽーっとなることを許してしまいそうになる。
「分かった!絶対に言わないから!」近い!と言いかけたところで、「絶対だからね!」とさらに詰め寄られたじろぐ。
こうして、お互いの秘密(僕の方は、どちらかと言うと脅迫に近い)をにぎる特別な関係となったのだった。
その後、席も前後で話すことが多くなった僕達は、とんとん拍子に仲良くなり、僕の苗字の竹“田”繋がりで、気づけば田口さん、川田さんとも仲良くなった。そんな僕は、入学早々クラス内で一目おかれるようになったのだった。もうスクールカースト下位の陰キャとは言わせない。いや、僕が勝手に言ってるだけなんだけども。
「竹田~!俺も田中さんと仲良くなりたいんだけど!!」
今日も今日とて、原井が僕の席にやってくる。本当の目的は、その後ろの席のマドンナなのだが、原井にその勇気はないようで。
「原井も苗字に“田”がついてればね~」
なんて適当にあしらう僕に、「そうだぞ~!原井はこの絆には入れんのよ。」と、川田さんが間に入る。それにケラケラと笑う田中さんと田口さん。
例え“田”が入ってたって、僕と田中さんのような関係には慣れないんだぞ。と、心の中でこっそり原井に釘を指しておく。
どうして田中さん、いや、美月が、入学式から3ヶ月経った今も偽物の前髪をつけているのか。ぜひ考えて見てほしいものだね。