其の十八 影の中の指
ドアノブが、ギイイイ、と嫌な音を立てながら回転していく。
唐突に、ドアが大きく俺達の方へと開かれた。
「うわああああっ!!」
俺と花は、あまりの恐怖に飛びずさりつつ、互いを庇う様に抱き合った。
「……何よ?」
ドアの向こう側にいたのは、きょとんとした表情の母さんだった。
「……え? 母さん?」
俺達は余程変な顔をしていたのだろうか。母さんも変な顔になった。
「……あ、母さんお邪魔しちゃった!?」
おほほ、とわざとらしい笑い方をしながら後退る。俺達はしがみつき合っている。なるほど、盛大に勘違いされている模様だ。
母さんを呼び止める為、二人で必死で言い訳を始めた。
「お、おばさん! これは違うんです!」
「そ、そうだよ母さん!」
先程までいちゃついていたのは事実だったが、今は違う。
外界に繋がるそのドアを、再び閉じられたくはない。
この場から救い出してくれる存在の母さんをこの場に繋ぎ止めようと、俺達は必死だった。
「誰って聞いたじゃないか! 何で何も答えてくれなかったんだよ!」
「そ、そうですよおばさん! あんなに乱暴にノックするから、私達びっくりして!」
急ぎドアに向かうと、母さんが間違って閉じてしまわない様それを強く押さえる。花は、母さんの横に行くと、母さんの腕に手を触れた。
あの激しいノックをしたのが母さんだと分かった今でも、恐怖は収まらなかった。それは花も同様なのだろう。母さんに縋り付きこちらを見る目には、未だ恐怖の色が窺えた。
すると、母さんが不思議そうな顔をして首を傾げる。
「ノック?」
花が、引き攣った笑顔で問い返す。
「や、やだなおばさん、さっきどんどんどんって」
「え? してないわよ?」
俺は母さんの前まで行った。いつの間にか追い越した背。母さんは訳が分からないといった様子で、微妙な笑いを浮かべている。
「帰ってるのかしらって思って、それにもしいい感じになってたらって思ったからノックなんて」
だからゆっくりとドアノブを回したのか。というか、年頃の子供を持つ親なのに、そこはいいのか。母さんの基準が、いまいち分からない。
「……俺の声は?」
まさか聞こえてないなんてことはないだろう。そう思い尋ねると、母さんは再び首を傾げた。
「宗ちゃんの声? 静かだったじゃない。何言ってるのよ。だからてっきり、うふふ」
てっきり中で何か起きてるんじゃと勘ぐったのか。だが、今問題なのはそこではない。
「俺、大きな声出してたぞ!?」
「おばさん、宗ちゃんは嘘は言ってないですよ!」
花が母さんの腕に更に縋る。母さんは、キョトンとした後、苦笑した。
「あらやだ、私ったら、耳が遠くなったのかしら? 全然分からなかったわ」
花の恐怖を浮かべた顔が、振り返る。そんな花に、安心させられる様なことを言ってあげるのが彼氏の役目なのだろう。だが、結局は何も言葉が出てこなかった。怖がっている花に、何も言ってやることが出来なかった。なんて情けない彼氏だろう。
後頭部から背中にかけて、ぞく、と悪寒が走る。窓の外から聞こえる蝉の声だけがやけに場違いで、今すぐここから逃げ出したくなった。
でも、どこにも逃げられない。だってここは俺の家だ。俺の部屋だ。
唯一この恐怖をこの場で共有出来ていない母さんは、にこにこと花に話しかける。
「そうそう、花ちゃんにお願いがあって来たの。もやしのヒゲ取りを一緒にしたいなって思って!」
「あ、は、はい、やります」
花は笑顔を引き攣らせながらも、こくこくと頷いてみせた。花のそんな様子には気付いていないのか、母さんは純粋に嬉しそうだ。
「本当!? 嬉しいわ! この子ったら手伝いなんて何もしてくれないし、それにどうせなら花ちゃんとお喋りしながらやってみたかったの!」
「おばさん……」
あはは、と花が笑う。段々と元気が出て来た様だ。
そうだ、花はあの足も手も見ていない。実際に体験したのは、今の激しいノックだけだ。
だからきっと、気の所為だと思えたのかもしれない。
花が、ぎこちなさの残った微笑みを見せる。
「宗ちゃん、おばさんのお手伝いしてくるね」
「……あ、うん、分かった」
他に何と言えよう。落ち着いてきた花をまた怖がらせて、一体何の意味がある。
大丈夫だ。俺が見た手も足も、きっと俺が自分に見せているただの幻覚に過ぎない。ずっと太一を忘れていたことから生じた罪の意識から、勝手に無意識が映し出しているだけだ。
「花ちゃん、本当の娘みたいで嬉しいわー」
母さんと花が、廊下を並んで台所の方に去って行く。
廊下には、窓から差し込む少し傾き始めた日の光が差し込み、花に当たった日光が母さんの右側に昏い影を生み出していた。
俺もリビングに行こう。あそこにいて、テレビでも見ていたらきっと忘れる筈だから。
部屋のドアを開けたままにし、母さんの後ろ姿を見る。
ヒュッ
と息を呑んだ。
母さんの右手の影の中に、その手を握る子供の指があった。
母さんが腕を振って歩く。
母さんの右手に、日光が当たった。
……指は、どこにもなかった。
脂汗と共に、は、は、と荒い息をする。心臓がおかしな位に激しい鼓動を刻んでいた。
慌てて周りを見回す。
何もない。
誰もいない。
それを確認すると、急いで母さん達の後を追いリビングに入った。
もやしが入ったザルを、母さんがにこにことお喋りしながら食卓の真ん中に置いている。花の顔にはにこやかな笑みが浮かび、二人楽しそうに会話をしていた。
台所に水を飲みに行くふりをし、目線をすっと下ろすと、二人の手を確認する。確認せずにはいられなかった。
子供の指は、やはりどこにもなかった。
まるで恋に落ちた乙女の様な俺の鼓動は耳にまで響き渡り、ちっとも収まる様子を見せない。水を一気にくいっと飲み干すと、再度確認した。――やはりない。
コップを持つ手が、小刻みに震えていた。
咄嗟に手首を掴みその震えを止めようとしたが、コップを握り締める手は今にも割りそうなくらいに力を込めている。
落ち着け、ここにもうあれはいない。確認したじゃないか。
幾度心の中でそう唱えようと、手の力はどうしても抜けてくれることはなかった。




