少しお借りするだけです
営業室に戻ると、あ!中林さん!と、吉田行員がパタパタと近寄ってきた。
「出金、オペレーションできました。宜しくお願いします。」
「あ、どうも。」
先程の預かり物件を返却される。
といっても、まだ現金が用意できている訳ではない。伝票及びお客様の通帳への印字が完了しただけで、実際の出納処理は、オペレーション後の伝票をもって、オープン出納と呼ばれる出納機器にて外交員が出金するのであった。
オープン出納で出金手続きをしていると、「オープンお願いします!」と、窓口からどんどん処理が回ってくる。時刻は13時45分。支店は相変わらずごった返している。
そそくさと処理を済ませ、脇に山積みになった処理待ちカルトンには気付かないふりをして、秀明はまた営業室を出た。支店には、業後を除き、なるべくいないに越したことはない。面倒なことを押し付けられたり、手伝わされたりするだけなのだから。
再び鈴木様のご自宅へ伺うと、
「中林君、どうぞ〜入って。」
と、声が聞こえてきたので、そのまま中へ入る。
先程案内された和室の机に、預かっていた通帳と現金を置く。通帳の最終ページを開き、記帳内容を確認してもらう。
「30万円の出金です。」
「どうもありがとうね。あれ、バレなかったでしょ?」
あれ、とは何のことかと一瞬戸惑うが、すぐに伝票代筆の件だと気付く。
出金伝票は、必ず本人が書かないといけないものではなく、筆跡照合までは通常行わない。本人ではなく、家族が書いたりすることもある。今回の問題は、外出先において行員が単独で代筆行為を行った部分にある。よって、書類上は問題なく、お客様か秀明が誰かに漏らさない以上は、バレるはずがない話だった。
「大丈夫でしたよ。でも、黙っておいてくださいね。」
鈴木様はクスッと笑い、
「誰にそんなこと言うのよ。大丈夫よ。私が無理して頼んだんだから。」
と、出金した30万円を現金封筒から取り出した。金額を確認するのかと思いきやそうではなく、鈴木様はそのままその現金を、チェストの一番下の引き出しに入れたようだった。
「毎回お金を引き出してね、ここに置いてるのよ。年金貰うようになってからずっとよ。まぁそんなに使わないから、貯まっちゃってるんだけどね。急にお金が必要になった時に助かるからね。」
「そうなんですね。」
と、ふと覗き込んで─秀明は目を見開いた。
白いチェストの引き出しは3段あり、ざっと大きさを見積もったところ、幅20センチ、奥行30センチ、高さ15センチといったところか。それ自体は小ぶりなものだった。
が、その一番下の引き出しに、横に重ねられた壱万円札がほぼ全面に敷き詰められていた─
秀明は、ごくり、と、生唾を飲んだ。
(すげぇ・・・本当に使ってないじゃん。いくらあるんだろ。700万円くらい?いや、800万円くらい。いや、もしかしたら、1000万円くらいあるかも・・・)
考え込んでいると、それを遮るように電話が鳴った。
「あら、誰かしら。あ、中林君、ちょっと待っててね。美味しい水羊羹があるから、電話の後でね。」
と、鈴木様は電話機のある台所の方へパタパタと向かった。
鈴木様の声はよく通る。台所のドアを閉めきっても尚、会話内容は丸聞こえだった。
「あら、高山さんこんにちわぁ。ご無沙汰してますぅ。お元気にされてるの?─うん。─うん。え、そうなの?!え、それいつから?」
何だか長引きそうな話だった。
と、スーツのポケットに入れている私用携帯のバイブレーションが鳴った。いつもならお客様の自宅で確認したりはしないが、今は暫く大丈夫であろうと踏んで、秀明は携帯電話を取り出し着信メールを読んだ。
[ほんと?秀ちゃん、ぜったいぜったい会いに来てね!待ってる(><)♡]
先程のキャバ嬢・りかからの返信だった。
(うわー行きてぇ〜。でもな〜今日持ち合わせが少ねぇんだよなぁ〜くそっ。)
こっそり舌打ちする。
「はぁ〜ぁ。」
嘆息し、ふと目の前のチェストを見やった。一番下の引き出しは、慌てて席を外した鈴木様の手により、無造作に引き出されたままであった。
(この、金─)
秀明は、冷たい何かが、自分の胃の中に入ってくるような、そんな感覚に襲われながら─その引き出しから目が離せなくなった。
こんなこと、思いついたら駄目だと、頭では分かっている。しかし…
(この金、少しならバレないんじゃ?この金があれば、今日店に行ける…)
来週の金曜日は、支店での歓送迎会が予定されており、確実にキャバクラには行けない。つまり今日を逃すと、当分りかには会えない─
秀明は、暫く会わないと、りかが誰が別の男のものになるのではという不安も感じていた。
(そうだ…ちょっとなら…絶対バレない…そう、ちょっとお借りするだけだ。俺なら─ウチならすぐ返せる。)
ドクン、ドクン…
自分の鼓動が耳の奥から大きく響いて聞こえてくるようだった。
(もしも、バレたら…?どうなるんだ?これをして、バレた奴らは、過去に痛い目に遭ったじゃないか。懲戒免職、刑事告訴、一家離散…。人生そのものがもう終わったようなもんだ。でも─)
中林には、幾分か採算があったのだ。
この金に手を染めたとしても─
(俺は、他の奴らとは違う!俺なら、バレない!)
胃の中の冷たい何かは段々と拡がり─
気が付くと、手が伸びていた。
ぐしゃっ!と、数枚の壱万円札を握り、スーツの内ポケットへ素早く閉まった。
ドクン、ドクン、ドクン…
鼓動はどんどん激しくなっている。鈴木様の甲高い声が、何を言っているかまではもう理解できなくなっていたが、頭の遠くで響いている。
秀明は、深呼吸をした。何回か、深く深呼吸を繰り返した。
どれほど時が経ったかわからない。
5分だったかもしれないし、30分ほどだったかもしれない。
ガラッと扉が開き、鈴木様の声で我に返った。
「ごめんねぇ。長くなっちゃったわ。昔このご近所さんだった人からの連絡でねぇ…。病気したみたいで大変ね。あ
はい、水羊羹。食べて行ってね。」
「あ、ありがとうございます…」
水羊羹は、高級店のいいものだと秀明には分かった。だか何の味もしなかった。それよりも、バレないかどうかだけが気になり、鼓動もなかなか収まらなかった。
鈴木様は、ニコニコと相変わらずの笑顔。全く、気づく様子もない。秀明は、水羊羹を無理やり冷茶で流し込んで、御礼を言い、鈴木様宅を後にした─
業後も、支店の電話が鳴る度に、思わずドキッとした。だが、どうということなく、時間は過ぎていく─
営業店の時計の針は19時15分を指していた。女子行員は、役席以外、仕事も終えほぼ退行していた。
「ほら、もうエコ閉めるぞー。今月は目標退行時間厳しめだから、皆早くゴミ捨ててよー。」
うろうろ歩きながら周りに声を掛けているのは事務長だった。エコというのは、エコバッグのことで、銀行の紙類(書類)をリサイクルするため、一日の終わりに各人が選別したものをそこへ投入する。
秀明は、自分のゴミ箱にはほとんど書類は入っていないのを確認し、エコ用と一般ゴミにさっと選別した。外交の中で一番に捨て終わった。
外交は、役席と自分も含め、7人。自分より下の後輩は2人いる。
よって、細かい後片付け等は、秀明が行う必要はなかった。
「お先に失礼します。」
銀行では、退行時の挨拶は、一人一人に行わないといけない。おかしなルールだと秀明はいつも思っていた。支店全員が30人だと、帰るだけで、30回も挨拶しないといけないのだ。
秀明は、ボソッと小さな声で、「お先に失礼します。」を繰り返しながら、営業室からそそくさと出た。中には返答の返ってこない者もいたため、聴こえていなかったかもしれないが、どうでも良かった。
ひとまず、更衣室のロッカー前で、こっそりスーツの内ポケットを確認する。少しくしゃくしゃになった紙幣を取り出し数えてみると、計13万円あった。
(結構あったんだな…よし。)
思わずニヤッとし、紙幣を財布に仕舞い、駆け足で下へ降りて、支店を後にした。すぐ前の大通りでタクシーを拾い、繁華街へと繰り出した。
秀明の鞄には、いつも整髪料が入っている。タクシーの中で、普段は朝起きたまま何もしていない髪を、手鏡を見ながらあちこちいじってみせる。普段は地味な印象の秀明は、金曜日だけは少し色気のある男に変身するのだ。合わせて、胸の行章を外し、財布の小銭入れに仕舞った。
キャバクラ店へはタクシーで、20分ほど。 新入行員時代に、同期に混じりキャバクラへ初入店し、そこで秀明はこの楽しい世界にのめり込んでしまったのだ。煌びやかな装飾、美しい女達、美味い酒…そのどれもが心地よかった。
それからは、一人で来るようになった。何軒かの店へ訪れる中、特に気に入ったのが、本日行く店【butterfly】だった。