10話
ルッツとミリアのダンスが始まる。
ダンスといってもステップだけ。しかも、ミリアの体力を考慮して、そのステップはデウスのときよりも遅い。
明らかに周囲のペースと合っていないのだが、ルッツにはそれを気にする様子は微塵もない。
ただ燃えるような熱い視線を、ただ目の前の女性…ミリアに注いでいる。
その視線に耐えられないと、ミリアはさっきから全然ルッツと目を合わせていない。
これまでのルッツとはまるで違う、情熱ともいえるような視線を、ミリアには受け止める度胸は無かった。
なにせミリアの前世は恋をすることのなかった初心な少女。
初めて向けられるその謎の感情に、どう対応していいか分からないのだ。
――人はそれを、恋と呼ぶ。
「ミリア」
ルッツがミリアの名を呼べば、ミリアはびくりと体を震わせる。
その声もこれまでのおどおどしたものではなく、低い、芯の入った男の声だ。
それにすら困惑は増していき、どうしていいかわからなくなる。
「…本当に、疲れたのか?」
次は気遣うような、柔らかな声色。その声には、本当にミリアを気遣う優しさが込められている。
「…いえ、大丈夫よ」
「なら、よかった」
そうしてダンスは続く。
もうすぐ一曲が終わる。
このよく分からない感情も、ルッツと離れれば収まるに違いない。
そう思っていたのに、突然ミリアは浮遊する感覚に襲われた。
それは先ほどのデウスと同じこと…
「きゃっ!」
短い悲鳴を上げるミリアだが、ルッツにはそれを気にした様子もない。
「…軽いな」
抱き寄せられ、耳元で囁かれる低い声に、脳が痺れる感覚がした。
「そこで『重い』などと抜かしたら足を踏んであげていたところよ」
なんとか軽口をふり絞るも、ルッツはそれをニヤリと受け止めた。
「そうか。ならこのままがいいな」
「ちょっ!」
ミリアを胸に抱き、腰に回した手に力を籠めルッツはそのままくるくると回りだした。
ドレスの裾がふわりと舞い、まるで愛し合うカップルのような光景に周囲が注目する。
しかしその二人が、『あの』ミリア、そしてルッツと分かると各所で囁きが起こる。
当然だろう、先ほどはデウスに抱き寄せられ、今度は元婚約者ルッツと。
そうなると、この中で『悪者扱い』されるのが…ミリアだ。
「あのようなふるまい…カースタ家の令嬢とは慎みを知らないのか」
「男をとっかえひっかえ…その中に殿下を混ぜ込むなんて最低ね」
見れば明らかに弄ばれているのはミリアのほうだというのに、理不尽な話だ。
彼らの耳にも、ミリアの幼いころの悪行、今の振る舞い…ルッツとの婚約解消、デウスからの求婚は届いている。
ルッツやデウスは、元から悪評はあまりない。それに対し、ミリアは悪評を轟かせた存在だ。どちらを叩きやすいか…自明の理だ。
そんな声も、ミリアには届かない。
浮き上がるほどに強く抱きしめられ、その服越しに感じるルッツのたくましさにそれどころではないのだ。
間近で感じる異性の体温。硬い胸板の感触。
ほんのりと鼻に届く香りは何か…それもまたミリアを困惑させる要因だ。いい香りだとミリアは思う。だが、ただいい香りというだけではない。それだけではない何かが、ミリアの嗅覚を強烈に刺激する。
ミリアの前世でかぎなれた香りといえば、病院特有のエタノールや薬品の臭いばかりだ。香水の類の匂いなどまずない。
それだけに、香りというものがこれほどまでに自分を刺激する何かになっている…そのことにミリアは感動もしていた。
「下ろすぞ……ゆっくりするから」
曲が終わり、ようやくミリアは床に下ろされる。
デウスの様子を見ていたのか、さらにその所作はゆっくりで、ちゃんと声もかけてくれる。
けれど、床が近づくたびにルッツとミリアの距離は離れていく。
感じていた体温が消えていく。香りが薄れていく。
それを惜しく思うことも、ミリアに困惑を付加する要因になった。
「着いたか?」
「…ええ」
「じゃあ離すぞ」
ようやく腰に回された手が離れ、ミリアは自分の足で床に立つ。
さきほどのデウスと全く同じ。
なのに、今ミリアが抱く思いは、全く違う。
デウスの時はようやく解放された…幾重にも糸が巻かれ、蜘蛛に絡め取られた獲物が何とか脱出した、そんな心境だった。
なのに、ルッツの場合はそのたった二本の腕に抱かれただけなのに、全く違う思い。
それは何か?ミリアにはその答えが見えない。
ダンスの輪から抜けるまでの間。
その繋がれた手が、しっかりとミリアの指に絡んでくるルッツの指が、ミリアとは異なる指の太さが、ひどく頼もしく感じた。
***
デビュタントが終わり、ミリアは屋敷に戻ってきた。
ドレスを脱ぎ、身体を入浴で温め、夜着に着替えるとベッドに倒れ込んだ。
疲れていた。体も、心も。
「はぁ…」
「お疲れ様でございます」
普段は毒舌のルーミアも、この時ばかりは気遣ってくれた。
「ハーブティーにございます」
「ありがとう」
身体を起こし、ハーブティーを一口に喉に流し込む。
ほどよい温かさと、ハーブの香りが疲れを癒してくれる。
そして思い出すのは、あの二人のこと。
あの二人にされたことは予想外のことだった。
今日は踊るつもりはなかった。
始めから断るつもりでいたし、誘われることもないと思っていた。
それなのに二人にダンスに誘われ、応じてしまった。
そして…垣間見てしまった二人の素顔。
あの素顔にミリアは困惑するしなかった。
特に……ルッツ。
改めてルッツがどういう人間なのか、実感してしまった。
これまで目にしてきた姿と、今日の姿の違い、ギャップはあまりにも大きすぎた。
それは、考えられないほどの動揺をミリアに与えた。
「…寝るわ」
「お休みなさいませ」
ハーブティーを飲み干し、ベッドにもぐりこむ。
明かりが小さくなり、ルーミアが部屋から退室した。
シンと静まり返った室内。
明日は学園は休み。デビュタントで疲れるだろうからと、何も予定は入れてない。
どうしようかなと考えながら、眠りについた。
***
翌日。
普段よりも遅い時間に起床してしまったミリアは、遅い朝食を取った。
朝食を終えると、本を手に、中庭へと向かった。
「優雅なお貴族様の読書時間ですね」
「…勉強よ」
皮肉のルーミアが紅茶を入れてくれる。
学園に復帰し、授業を受けるようになってから実感したのは授業の遅れだ。
7年…いや、そもそも生前授業を受けたことが無いミリアからすれば、あと1年で学園を卒業する年代の授業の内容を理解することはなかなかに難しかった。
もちろん、この1年の間に遅れを取り戻すように勉学にも励んできたがそれでもすぐには追いつけない。
なので、本…教科書を手に、勉強を始めたのだった。
「…ねぇルーミア、これ教えてほしいんだけど」
「1問追加…と。お嬢様、これはですね…」
一問一答につきいくら。もちろんルーミアに抜け目は無い。
さっきからミリアが教科書について聞くたびに、何かメモをしている。
ルーミアの優秀さは、勉学でも発揮されている。聞けば、学園程度で学ぶ内容はすでに修了済みだとか。距離感の近さもあり、家庭教師よりも習いやすい。…メモの内容を見さえしなければ。
そこに、一人の侍女が近づいてくる。
ルーミアに何か言付けし、するとルーミアの眉がぴくりと動く。
「ルーミア?どうしたの?」
何かあったのか、ミリアが尋ねるとルーミアは大きくため息をついた。
「お嬢様にお客様でございます」
「私に?」
来訪の予定は無かったはず。そう首を傾げると、ルーミアはやれやれといった感じで言う。
「ルッツ様でございます」
「ルッ…ツ…?」
「…すまない、急に押しかけて」
「いえ」
それだけ答えると、場が沈黙を支配する。
まさかの来訪者にミリアも、そして屋敷の者たちも困惑している。
今日のルッツは青のスーツを身に纏っている。
あまりラフとはいいがたい格好に、一体彼の要件は何なのかと困惑してしまう。
そして屋敷の者たちである使用人も困惑している。
なにせ彼はミリアの元婚約者。それでいてミリアの病気の際には一度も見舞いに来なかった薄情者という認識だ。
そんなルッツが先ぶれも出さずに屋敷を訪れ、そんなルッツを中に通したミリアに、困惑している。
彼らの中にはもちろんミリアの両親同様、援助を受けながら見舞いにも来ないロード家の人間に良い感情を抱いていない者もいる。しかし侯爵家の使用人ならば、個人的な感情を表には出さない。彼らにすれば、ルッツの来訪は断って当然だった。
恥知らず。そう思う者もいる。しかし、そのルッツをミリアは招き入れた。ゆえに彼らは困惑した。
「…疲れは無いか」
「ええ、おかげさまで」
「そうか…」
また沈黙。
まだ彼は今日訪れた目的を告げていない。
そんな彼は、昨日の姿とは打って変わり、いつものおどおどした子犬のようだ。
視線は俯き、ミリアを真正面から見ようとしない。
カップのこすれる音だけが場に響く。
そうして1杯目を飲み終えたところで、ようやくルッツは口を開いた。
「今日は…何を?」
「何を?」
質問の意味が分からず、ミリアは首を傾げた。
何故そんなことを聞くのか、そもそもその前に自分の目的を告げるのがさきだろうに。
そう思いながらも、仕方ないとばかりに言うことにした。
「勉強です」
「勉強…か、何のだ?」
「学園のです。遅れがありますので」
「…なら、俺が勉強を見ようか?」
「はい?」
(何を言い出しているのかしら?)
ルッツの意図がさっぱり読めない。
何かしら目的があって来たのだろうにそれも言わず、それどころかミリアの勉強を見ると言い出す始末。
しかし何か希望でも見出したのか、俯いていた顔がミリアを見やり、まるでおもちゃを見せられた子犬のように嬉しそうな表情だ。
「これでも、勉学はそれなりに優秀だと自負している。だから…」
「ミリア様の勉強は私がみておりますのでご心配なく」
ルッツの言葉を遮り、ルーミアが告げる。
侍女の立場で貴族令息の言葉を遮る。無礼と言われてもしょうがないが、それを咎める者はいない。…ルッツも含めて。
「俺の方がうまく教えられる」
「私の方が優れておりますので」
にらみ合う二人。
(何なのかしら、この状況…)
ミリアに勉強を教えるのは自分だ、と譲らない二人。
正直ミリアからすればどっちでもいい。…早く勉強に戻りたいと思っているくらいだ。
「…じゃあこうしましょう。私が問題を出すので、二人はできるだけ早く答えて頂戴。速く、かつ正解だったほうが勝ち、ということにしましょう」
これならミリアは勉強しつつ、どちらが優れているかはっきりする。
まさに一石二鳥。
「いいだろう。俺は負けない」
「負けません。特別給付金のために」
ずいぶんとやる気なのか、ルッツの顔に気迫がこもる。
ルーミアはぶれない。
***
「ま、負けた…」
「……よし!」
がっくりと崩れ落ちたのは…ルーミア。
そして小さくガッツポーズを決めるルッツ。
自分で言うだけあって確かにルッツは優秀だった。
しかし、である。
「…まぁとはいえ、一問差だし、私はどちらでも…」
そう、勝敗はたった1問差。それではルッツのほうが優秀であるとは断じにくいし、ほぼ同じとみていい。
「そんな…!」
「よっし!」
今度は対照的にルッツは絶望の表情に、ルーミアはざまーみろという感じに。
喜怒哀楽が激しい二人である。
「しかし、勝負は勝負…!」
「受けるのはお嬢様ですから。決める権限はお嬢様にございます」
「くっ…!」
ルーミアのセリフにルッツがうなる。
この状況でミリアがどっちを頼るかと言えば、確実にルーミアだと分かっているからだろう。
しかし、何か思いついたのか、ルッツはルーミアを見やった。
「…ルーミア、頼みがある」
「お嬢様の命以外は聞きません」
「給金3か月分でどうだ?」
「!!」
ルッツの提案にルーミアの目の色が変わる。
普段のやりとりでルーミアがお金にがめついことはルッツも知っているようだ。しかしそれを餌にしてくるとは思わなかった。
「ちょっと待ちなさいルーミ…」
「5か月分で」
「いいだろう」
がっしり握手を交わす二人。
あわれ、ミリアの指導権は給金5か月分で売り払われることとなった。
この状況にミリアは頭を抱えた。
「ルーミア…あなたって人は…」
「ルッツ様の情熱にやられました」
「…アア、ソウ…」
もはや何も言う気になれなくなったミリアであった。