天才の疎外
思えば中学の三年間、大きな出来事は何もなかったと思う。
その時点ならそれなりに出来事が大きく見えたに違いないが、全て過去のことになると何故、あんなことに対して苦しみを強いられていたか不思議になってくるほどだ。
3月の小春日和。太陽の光が優しく僕ら卒業生を包み込む。こんな日に卒業式が出来ることは本来なら幸福なことなのだろう。
少し周りの同級生を見ると、目尻に涙を浮かべる者、前だけを見据え自信に満ち溢れている者、式とだけあって厳かにいる者、などなどが見受けられる。
皆、感情のベクトルこそバラバラだが感情が振れているという点では一致している。それを見て僕は得体の知れない気持ち悪さを感じる。
思えばこの中学三年間はこの感情がずっとつきまとっていた。消したいけど消せない。消したらその気持ち悪さの輪の中に入ることになるから。
僕は自分が天才であると自負している。
嫌味に聞こえるかもしれない。しかし事実を虚飾するのは僕の価値基準にどうも引っ掛かる。普通の人なら虚飾するのが当然なのだろうが。
テストを受ければ一位。スポーツをすれば優勝。芸術的活動をしようものなら最優秀賞。しかもそれらは努力の結果ではない。
全てやり方だけ軽く覚え、後は本番に臨む。それだけで最高の結果がついてくる。
天才と秀才の違いは何かというのはよく議論されるテーマではある。一般論では秀才は努力し、天才は努力しないで結果を出すものと言われる。
たがそれを定義しているのはその枠にすら入れない凡人達だ。天才秀才の気持ちを全く理解できない彼らが上から目線でよく言えたものだと思う。
だがそれも仕方のないことだ。いつだって得をするのは優れた能力を持った人間なんかではない。これといっていいところもなければ、悪いところもない。いわば60点の人間だ。
天才や秀才は敵わない相手とし隔絶し、馬鹿や阿呆はどう足掻いても自分には届かないと見限る。そんな人間。
困ったことにそんな人間はどこにでもいる。そして彼らは同じような人間としか触れ合わない。
天才や秀才からその力を盗もうとも思わない。馬鹿や阿呆を利用しようとも思わない。
ただ彼らの中で順位を常に付けようとするだけだ。しかしそんなもの60点以外の人間から見ればこんな小さな世界に躍起になる愚か者としか思わない。
結局、彼らの中での点数など60.1とか60.9とかの小数の世界でしかない。それにあまりに目を奪われるばかりに盲目的となり、本来60点未満でしかない人間にも嘲笑される。
順位というのは分母の絶対数が大きければ大きいほどいい。だから見栄えをよくするために60点の人間は多い。
だからこそ僕らは生きにくい。
彼らは僕らを許容できない。60点の出来の器には60点の物しか入りきらないのだ。
そして僕は疎外されてきた。
あいつとは分かりあえないと短いものさしで勝手に測られた。そのものさしは真っ直ぐではなく、婉曲していて所々、欠けているとも知らずに。
中学三年間、僕の周りには誰もいなかった。少し思い出そうとしてもあるのは、僕とただの空白。
嫌われていた訳じゃない。多分、きっと彼らなりの配慮なのだろう。僕のテリトリーを侵害しないための。間違った配慮ではあるが。
むしろ僕に対してよそよそしい態度をとるのが気に障る。それは尊敬しているようで僕を一個人と認めていない証拠だと思う。
神童というのは意外にどこにでもいる。だが神『童』とだけあってそんなのは子供の時の一過性なものにすぎず、やがて神のごとく才能は失われていく。
神童も二十歳過ぎればただの人というやつだ。
これの原因は何かと考えると、その一つにその人物が早熟だというものがある。才能があったのではなく、これからの将来性を前借りしていたということだろう。
それも一理ある。だが僕に言わせてみると、原因は神童は孤独だからだろう。
周りと比べ傑出した能力を持つ故に誰も自分に追い付けない。それにより孤独が生まれ、やがて仲間を求め周りに合わせようとする。
それによりオンリーワンだった才能が錆びていく。大事なのは個性であるはずなのに強すぎる個性が人とコミュニケーションをとる上で、重石になっていく。
そして神童は自分の才能を自らドブへと捨てていくのだ。
それに気付けた僕は幸運であると思う。この僕の才能は失ってはいけないものだ。
周りが僕を孤独にさせたのもあるが、そう感じたからこそ自ら孤独を選んだと言っても間違いないではない。
そんなことを考えている間にも、卒業式はつつがなく進行していく。式も終盤に差し掛かり、卒業生代表が訓示を垂れている。
訓示は元は僕も依頼されたが、すぐに断った。理由はまだ受験が終わっていなかったからだ。
担任からは色んな特色ある高校を教えられ、推薦してやるとまで言われた。普通なら推薦だと楽なので一も二もなく話に乗るだろうが、僕はそうしなかった。
大きな理由は二つある。
一つ目は推薦をしてやると言われた高校のレベルがそんなに高くなかったからだ。
推薦という制度は優秀な生徒が欲しい学校がやることなので、根本的に優秀な生徒が勝手に入ってくる高校にはそもそも必要ないことなのだ。
だから本当の超進学校には推薦制度がないことが多い。
高校に入るなら自分の才能の限界を試せる所がいい。そう考えると自分が最もレベルが高い高校に入ろうとするのは必然であった。
二つ目は担任が僕の進路を規定しようとしたことだ。
けして悪いことではない。ここまで生徒に熱意を持って進路を示す担任は今時珍しいのかもしれない。
だが僕の考えとは反りが合わなかった。
僕は自分の才能を失ってはいけないと思っている。そのためには自らが正しいと思ったことをやり続ける必要がある。
だからこそ担任が正しさを規定しまうと、才能が失われはしないかもしれないが、確実に綻びが生まれる。そしてそこから全てが瓦解していくのだ。ならばなるべくその芽は摘んでおいたほうがいい。
この二つの理由で僕は自ら進路を選びとった。
受験の方は日本でも有数の進学校を受けたが、特に問題なく受かった。過去問をやった限り難しくなかったのでその結果は当然であったが。
それによる影響はほとんど無かったが、唯一あったことは学校側が超進学校に受かったことに対し、浮き足たっていることだが僕にはあまり関係ない。
再び会場である体育館を見渡す。先ほどまでは多種多様な感情が室内を充満させていたが、今は感動一色といったところだろう。
それを見てより僕の心は無機質になっていく。あまりにテンプレートすぎる。それが可笑しくてたまらない。
結局、人間は単純だ。
自らの体に渦巻く様々な支離滅裂な感情かま自分の体内をのたうち回っているように思え、完全に統一されていることなどないと思う。
だがこうして卒業式に現れているのは絵に描いたような感動。それを周りから見れば、完全に統一されているように見えるだろう。
それを見て僕は口角が自然に上がるのを感じる。見てて可笑しくてたまらない。僕の体内は『楽』一色に染まってそれ以外のことは感じられなくなっていた。
だから気付かなかったのだ。いつも完璧だった僕がその称号に似合わない行動をしたことに。
それは孤独だった。けれどあくまで彼らに罪はない。僕が悪かったのだ。
僕の周りの全員が号令を受けたのであろう、その場で起立をしていた。僕は立っていない。ただそれだけ。
「へ?」
思わず間抜けな声が零れ落ちる。しかしすぐにそれを理解し、起立をする。
思わず教師の方を見ると、小さく頷いて再び号令を掛ける。
「卒業生退場」
それからは飽きるほど反復練習した通り、整然と卒業生が退場している。誰もが清々しい表情をしている。
だが僕だけはそんな表情をしてはいないのだろうと思った。すまし顔を取り繕ってはいるが、顔は真っ赤。そんな所だろう。
式の練習でこうした間違いはよくある。立つべきじゃないところで立ったり、立たなくていいところで立ったり。
僕はそれを見ていつも理解出来なかった。なんでこんな簡単なことが出来ないのか? と。天才だった僕にはこんな単純なことでミスる人の意味が分からなかった。
今でもそれが分かることはない。だけど僕はそんな人と同じミスをしたのだ。
その事実に僕は口惜しく、そしてやり場のない怒りが込み上げて来た。周りの人間が全て出来て、僕だけが出来なかった。
それは僕が60点未満に成り下がったことに他ならない。
怒りで充満していく。もうそれしか考えられない。それは先ほどの思考とよく似ていた。だからそれを振り払おうとするが、上手く消えてくれない。
代わりに次は顔が青ざめるのを感じる。色んな感情が渦巻いているのがありありとわかる。足元が崩れているのを感じる。
ただ一度の失敗。それは凡人にとっては何でもないことなのだろう。むしろそれは成長させる糧になる。
だが僕に成長はいらない。なぜなら既に全て能力が高水準にあるからだ。
僕に失敗は意味がない。成長しないからだ。だからこそ失敗はただの傷で深く残る。
完璧で天才だった僕が凡人に負ける瞬間。
それは酷く気持ちが悪いことで、そして二度と体験したくないものだと卒業式の花道を歩く中でそう感じた。
どうも明日野ともしびです!
初めて短編小説を投稿しました!
この小説の一部分に「神童も二十歳過ぎればただの人」という部分がありますが、これは不完全な文です。
正しくは「十歳で神童、十五歳で才子、二十歳過ぎればただの人」です。
つまりこれは「僕」が天才から才子に落ちるプロローグの作品であるといえます。
ちなみに私は「16歳ニートの職場体験」「そして僕は終焉を迎える」という小説も連載しているのでそちらの方もよろしくお願いします!